百人一首歌人の中の遣唐使。 阿倍仲麻呂、参議篁、菅家。


関連歌)
01 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ      天智天皇
02 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山         持統天皇
03 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂
04 田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ    山部赤人
05 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき       猿丸太夫
06 かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける   中納言家持
07 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも       阿倍仲麻呂
08 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山とひとはいふなり     喜撰法師
09 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
10 これやこの行くも帰るもわかれては しるもしらぬも逢坂の関     蝉丸
11 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人のつり舟    参議篁
12 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ      僧正遍昭

24 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに       菅家


百人一首の歌人のなかには、完全な遣唐使(行って帰って&日本で立身出世)はいません。
遣隋使・遣唐使の時代は、万葉時代とも言える飛鳥・奈良時代と、平安時代前期です。

飛鳥時代 570頃〜710
奈良時代 710 〜794    この時代の文化 ⇒ 天平文化    
平安前期 794 〜930頃   平安時代は、794〜1192。
遣隋使は、600年から。 5回。 小野妹子が2回渡る。
遣唐使は、630年から。 839年が最終(19回目)。
遣唐使は、894年に菅原道真の提案により終了。 船も出ず。


そこで、百人一首の遣唐使関連歌人として、5人あげてみます。
6番歌人=中納言家持(大伴家持)、7番歌人=阿倍仲麻呂、9番歌人=小野小町、
11番歌人=参議篁(小野篁・おののたかむら)、 24番歌人=菅家(菅原道真)。

●6番歌人=中納言家持(大伴家持)は遣唐使ではありません。が、「大伴旅人(=家持の父)の甥」の大伴古麻呂が二度遣唐使を勤めています。大伴古麻呂は、二度目では「遣唐副使」という大役を果たしています。
●7番歌人=阿倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡り、唐で出世し唐の高官となった人。ただし、仲麻呂は「鑑真が渡日を果たしたときの遣唐使船団の船」で帰途にはつきました。所がこの帰船団は暴風に遭い、仲麻呂の船は今のベトナム方面へ流されました。結局、仲麻呂は唐の地で没しました。鑑真さんの船、&「奈良の大仏建立」に貢献した吉備真備(真備は、二度目の遣唐使&この遣唐使節団の遣唐副使)の船はなんとか日本に辿り着く。
●9番歌人=小野小町は、伝説的な女性&伝説的歌人で、小野小町としては遣唐使と全く関係ありません。ただ、信憑性は低いですが小野小町が小野篁の孫という説があります(ココ参照)。ここで、「遣唐使の前の使節」である「遣隋使」の重要なメンバーに小野妹子(男性。聖徳太子の使いで隋に二度渡る)がいます。すると、小野篁は小野妹子の末裔(5代下)ですので、小野小町も「遣隋使の代表格である小野妹子」の末裔(7代下)と言う事になります。
一応、wikipediaに小野氏の系図が有ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F
●11番歌人=参議篁は小野篁です。篁が小野妹子の末裔(5代下)であることは確かなようですが、小野小町の祖父かどうかは不確かです。篁は遣唐副使でしたが難癖を付けて遣唐使船に乗らなかった人です。結局それがため流罪(どちらかというと左遷?=隠岐への赴任)にあった人です。参議篁の11番歌は、左遷先に向かうときの船上で読んだ歌です。ただし篁は、最終的には左遷先から都に戻されてます。
●24番歌人=菅家は菅原道真です。実はわたし、上の小野篁という人はサボりではなくけっこう先見の明のある人だったのではないかと、思っています。というのは、飛鳥時代に聖徳太子[厩戸皇子]が始めた遣隋使(初回=西暦600年(※1))から数えて、有効回数なら約240年間、終了宣言までなら約300年間、続けた遣使(遣隋使・遣唐使)という制度(※2)は、篁がサボタージュした回次が事実上の最終派遣となるからです。次の回次(894年)には、菅原道真(845〜903、58才)が「遣唐使は終了」を提案し認められますので。これは、このころの日本が「もう唐から学ぶよりも自力で国を整えていこう」という意識が確立していた事を示しているのでしょう。その後の日本は、仏教や文学文化建築などオリジナル色を有しているものが芽生え発展していきます。
●蛇足
参議篁(11番歌人)がサボタージュしたのは、第19次遣唐使。この第19次の前の、第18回次遣唐使で唐に渡った注目すべき二人の留学僧がいる。それは、最澄と空海。空海は「書」の達人。『弘法も筆の誤り』の弘法は空海のこと。弘法=弘法大師空海。
(※1) 
630年はまだ元号がない。初の年号は「大化」。645年。
(※2) 
遣隋使は、600年から。 5回。
遣唐使は、630年から。 839年が最終(19回目)。
遣唐使は、894年に終了宣言。船も出ず。


小倉百人一首 百歌人の生没年分布図



  
遣唐使 要約  (各回次の往復年&派遣隻数、その他)
By 20回説。 630〜894年。 最終派遣は838年。


01回 往630 復632      唐使・高表仁 来日、遣隋使だった僧・旻(みん)帰国。
02回 往653 復654  2隻  第2船が往途で遭難。
03回 往654 復655  2隻  高向玄理は帰国せず唐で没。
04回 往659 復661  2隻  第1船が往途で南海の島に漂着し、大使・坂合部石布が殺される。

05回 往665 復667      唐使・劉徳高を送る。唐使・法聡 来日。
06回 往667 復668      唐使・法聡を送る。唐には行かず?
07回 往669 復?       第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか。

08回 往702 復704  4隻  注目遣使) 山上憶良
09回 往717 復718  4隻  注目遣使) 阿倍仲麻呂吉備真備玄ム阿倍仲麻呂は唐に残る。
10回 往733 復735  4隻  注目遣使) 大伴古麻呂、普照(ふしょう)、栄叡(ようえい)

11回 往746          停止。
12回 往752 復754  4隻  藤原清河(大使)・
               吉備真備(副使。9回遣使)・大伴古麻呂(副使。10回遣使)。
               復途で唐の高僧・鑑真 来日(by 古麻呂の船)。
               おそらく、普照(ふしょう)古麻呂の船に乗っていたのだろう。
               真備 の船もなんとか、日本に辿り着く。
               阿倍仲麻呂(9回使)が大使船に乗って帰国の途についたが、
               大使船は暴風で今のベトナム方面へ流される。仲麻呂、唐で没。

  
『天平の甍』 (著 井上靖) は この「10回〜12回」の時期の物語。 
『天平の甍』 ⇒ 初刊 1957年12月。作者 訪中後に加筆。新潮文庫版、2005年に改版。
物語概要(ほぼ史実):
第10次遣唐使で大陸に渡った留学僧たちの物語。
「高僧」を唐から招くという命を受けた若い「留学僧」の運命を描く。
・高僧  → 出家者に正式な戒を授けるための伝戒師。 → 結局、鑑真(がんじん)。
・留学僧 → 普照(ふしょう) と 栄叡(ようえい)。
普照と栄叡は唐に渡って「高僧」を探し続ける。
探し続けて10年目、ついに二人は「高僧」(=鑑真)に出会う。
その後、普照栄叡鑑真たちは幾度も日本に渡ることを試み続ける。
試み続けること10年。この間、栄叡は病にかかり唐の地で没するが、
最終的に、「高僧」の日本への招き入れを果たす。
『天平の甍』 YouTube動画15分割でアップされてる。(民放の「月曜ロードショー」のビデオ録画版)
まずは、1/15がこれ ⇒ http://www.youtube.com/user/kurumi1972#p/u/9/e6MF_0PE5qM

『天平の甍』でも描かれている、鑑真の来日(754年[=帰船年]・12回次)。
その半世紀後、最澄・空海が留学僧として唐に渡る(804年・18回次)。

13回 往759 復761  1隻  渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。
14回 往761          船破損のため停止。
15回 往762          唐使・沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止。
16回 往777 復778  4隻  大使・佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原 両副使は更迭。
               第1船、帰途で遭難。副使・小野石根、唐使・趙宝英 死亡。
17回 往779 復781  2隻  唐使・孫興進を送る 

18回 往804 復806  4隻  注目遣使)最澄空海
               往途、第3船、肥前松浦郡で遭難。
               石川道益、唐で没。

               ところで、
               最澄はこの回次船で帰ってるけど、
               空海はこの回次の船で帰ってるのかなぁ?
               ↓ これに関し不確かな確認資料 @〜B
               ↓ 空海は最澄と同じ船団で帰ったのか?
               @ http://www.weblio.jp/content/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
               A http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage60.htm
               B http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage48.htm
               ↓ 次の資料で一応、納得。涙。(空海は806年8月 太宰府に 帰国)
               空海年表 の
               806年1月 空海の帰国申請
               ♂ に 帰国する場合、日本の使節を通じ唐の皇帝の許可を得must 云々
               806年8月 太宰府での空海  明州を発ち帰国。大宰府に着く

[上記のAの 下3分の1文郡]
この時、空海にまたまた幸運がやってきました。
空海を送り込んだ遣唐使の次の遣唐使の国使が長安にやってきたのです。
高階真人遠成(とおなり)という高官です。 ← この人はいつどの船で入唐したの??? (涙)

空海は遠成に日本に帰りたい、橘逸勢(はやなり)と共に「この業績を早く母国に伝えるのが私の務めである」と力説したと思われます。二十年の留学期間を朝廷より決められていた空海は「国禁」を犯してまで母国に帰って「この密教の体系を伝えたい」と思ったのは必然的なことです。事実、この遣唐使と一緒に帰国しなかったら、空海の生涯は唐で閉じられていました。次の遣唐使がやってきたのは837年、つまり空海の「高野山入定3年後」にあたる年なのです。

空海がやってきた遣唐使団の「日本出発一年延期」といい、死直前の恵果からの法伝授、突然の遠成の来唐といい、本当に幸運を味方につける空海です。

丁度その頃、日本では空海より一足早く帰国した最澄が、国費で集めた経典の中に「密教の断片」をみつけます。これに朝廷は驚喜し、彼の最大の保護者である桓武天皇は、最澄を庇護し、最澄に「仏教界最高のリーダーとして指揮をとり、諸派の仏教僧侶を集め、灌頂を与えよ」との命を発します。 つまり最澄は、密教の「国師」と仰がれる立場に成ったのです。 桓武天皇は、当時の仏教の最先端である「密教」の、神秘的な力を、自らの権力安定に利用しようとしたのでしょう。

これに対し南都六宗(奈良仏教界)は、最澄そして平安朝廷に強い反発を抱きます。もちろん日本にいる彼らは、一留学生の身分の空海が密教最高位の阿闍梨の地位になっていること、そして彼が日本に帰国することなんて、知る由も有りません‥

なるほど〜。 ふむふむ〜。それにしても・・・、
高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)は18回次遣唐使の中の一人で、
当初から次の遣唐使の国使という立場で入唐していのだろうか・・・。 わからん!
ひとり使者としてプレジャーボートで渡ったわけでもあるまいに・・・
「遣唐使船団」とはまた別に、こぢんまりとした「使節船」も逐次出してたのだろうか・・・。


↓の @&A で解決!
@ http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/eurail/pilgrim/nenpyou-kuukai.htm

A http://urano.org/kankou/topics/kuukai/index.htmlの次の箇所。
806年(延暦25年)3月17日桓武天皇が崩御し、第51代平城天皇が即位した年、新皇帝の即位を祝う使節として高階遠成(たかしなノとおなり、真人)らが長安にやって来たので、留学期間20年の短縮を請う書簡を渡して許され、同年(大同元年)4月空海は帰国を前に越州(えんしゅう、現在の浙江省紹興)で経典を求め、8月空海と橘速勢が留学期間を2年に短縮して、遣唐使船に高階遠成らと共に便乗し、帰国の途に着きました

どうやら、@の記述から
最澄は、平安京を開拓した50代桓武天皇のお気に入りとなったらしい。
空海は、この後の「薬子の変」(810年)で嵯峨陣営の勝利を祈願したことなどにより、
桓武天皇の子 52代嵯峨天皇のお気に入りとなっている。


19回 往838 復839  4隻  藤原常嗣(大使)・小野篁(副使)。
               836年・837年と連年渡航失敗。
               その後小野篁、病と称し行かず流罪。
               帰途、新羅船9隻を雇い帰る。
               第2船、南海の地に漂着。
               知乗船事・菅原梶成、大隅に帰着 

20回 894年          菅原道真(大使)。
               菅原道真の進言により遣唐使を廃止決定。
               菅原道真の大使の任は解かれず。



小倉百人一首と日本史の照らし合わせ

posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

漢字の伝来時期、万葉仮名・カタカナ・ひらがなの創生過程

小倉百人一首で、歌番号の始まり頃の 万葉歌人()の歌はいったい、
「オリジナルではどういう文字表現だったんだろう」と、最近私は関心を持ち始めました。
そんな関心を持ち始めてみると、そもそも漢字の伝来時期や
カタカナ[片仮名] ・ ひらがな[平仮名] の 発生時期 & 形成過程 は
どうだったんだろう、と思い始めました。   それで、少しネット徘徊してみました。
すると・・・「なるほどなぁ」と一人勝手に納得したのでした。 <(_ _)>
) 
万葉歌人 ⇒ 「万葉集」の時代、主に、おおよそ600年代&700年代、飛鳥&奈良時代、の歌人。
百人一首の歌人で言うと ⇒ 1番天智天皇〜6番中納言家持[=大伴家持]あたりの範囲の人。

参考)  小倉百人一首 1番歌〜7番歌
01 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ      天智天皇
02 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山         持統天皇
03 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂
04 田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ    山部赤人
05 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき       猿丸太夫
06 かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける   中納言家持
07 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも       阿倍仲麻呂


この7首の内、02番 持統天皇歌、のオリジナル歌と思われる歌が YouTube にあります。

・万葉表現 
   春過而 夏来良之 白妙能  衣乾有 天之香来山   持統天皇   万葉集 巻1−28
・現代表現
   春過ぎて 夏来るらし 白袴の 衣乾したり 天の香具山  ( ← 上のYouTube準拠表現)


小倉百人一首 百歌人の生没年分布図



この関心を持って、私がネット徘徊で出会った、私にとって面白かったサイト、4サイト紹介します。
1. 万葉仮名一覧 (万葉仮名の例)
2. 漢字の伝来:呉音と漢音
3. 漢字と格闘した古代日本人
4. 日本語の起源
(注) 上の4見出しは、サイト名もありますが、私のフィーリングで付けたモノもあります。



1.万葉仮名一覧 (万葉仮名の例)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/kana/home.html
雑感)
冒頭の意図で色々とネット徘徊していたら、『万葉仮名』という表現を頻繁に目にした。しかしそれらの表現を目にしても、「そういうものがあったのか」と思う程度で、それが実際にどういうモノなのか余り強く意識しなかった。所が、このサイトを見て、「あぁなるほど。『万葉仮名』ってこういう漢字のことを言っているのか」と納得したのでした。


2.漢字の伝来:呉音と漢音
http://blog.hix05.com/blog/2009/05/post-1002.html
要約と雑感)
第〇波  伝来時期の目安 ⇒ 弥生時代中期〜古墳時代 
漢字の伝来は紀元1世紀頃から徐々に行われた。
このひたひたとした伝来の流れが次の「大きな二つの波」となる。
第一波  伝来時期の目安 ⇒ 古墳時代末期〜飛鳥時代
5世紀頃から7世紀にかけて朝鮮半島からの人によるもの。 「呉音」
第二波  伝来時期の目安 ⇒ 飛鳥末期、奈良、平安初期
7世紀から8世紀に、遣隋使・遣唐使・留学僧が持ち帰ったもの。  「漢音」

 「呉音」は百済からやってきた帰化人たちがもたらしたもの。これは第一波での伝来当時、百済の知識人たちが、六朝時代を通じて南朝文化と深いかかわりを持っていた(※)からであろう。

 「漢音」は遣隋使・遣唐使たちが持ち帰ったもの。「漢音」は唐の長安(今の西安)を中心に使われていた。唐は隋の後を受けて中国全土を統一した王朝。唐はまた、さまざまな面で全土統一にこだわり、言語もその例外ではなかった。日本の遣隋使・遣唐使たちが接したのは、そういう言語文化「漢音」だった

 そのような背景のもと、日本の朝廷は、唐の文化政策に倣い「漢音」を尊重し、漢字の発音はすべて「漢音」にしようとした。しかし、それは実らなかった。「呉音」がすでに、簡単に排除できないほど日本の文化に定着していたからである。この「漢音」と「呉音」のせめぎあいを物語るのが「日本書紀」と「古事記」の違い。
日本書紀」はすべて「漢音」を用いて書かれている。
古事記」の歌謡はすべて「呉音」を用いて書かれている。
これは、「呉音」が深層にあって、その上に「漢音」が乗ったのだろうと示してる。

 で、わたしの気ままな雑感。
現在、漢字の音読みに複数パターンあるのは、「呉音」と「漢音」の影響かぁ。
なるほどぉ〜、とわたしはひとり勝手に納得したのでした。
「呉音」は上の「第一波」のなごり?
「漢音」は上の「第二波」のなごり?

(※) 
六朝時代を通じて南朝文化と深くうんぬん の
「六朝時代」と「南朝文化」 について。

六朝時代 ⇒ 280〜589年。
建康(=今の南京)に都をおいた六朝 の時代。
280年、三国時代の「呉」の滅亡、から
317年、晋時代の「東晋」の成立、までと
589年までの、南北朝時代をふくめた時期。
「六朝時代」は中国における宗教の時代。
この時期に興隆した宗教を基に、花開いた。
江南 (長江。下流域は揚子江 の南側域) の開発が一挙に進み、
後の「隋」や「唐」の時代に、江南は中国全体の経済基盤となった。
「南朝」では、政治的な混乱とは対照的に 文学や仏教が隆盛をきわめ
「六朝文化」と呼ばれる貴族文化(≒南朝文化)が栄えた。
南北朝時代 ⇒ 439〜589年。
中国の王朝が南北並立していた時期。
439年、北魏が華北を統一、から
589年、隋が中国を再び統一、まで。
この時期、華南には「宋、斉、梁、陳」の4つの王朝が興亡した。これらの王朝を「南朝」と言う。
南朝文化
その南朝において、実権を奪われた貴族たちが 蓄財・文化発展に走り、萌芽した貴族趣味文化。

メモ1) 中国の歴史
・・・ ⇒ 周 ⇒ 漢 ⇒ 三国 ⇒ 晋 ⇒ 南北朝 ⇒ 随 ⇒ 唐 ⇒ 五代十国 ⇒ 宋 ⇒ 元 ⇒ 明
  ⇒ 清(1616〜 1616=江戸14年=2代秀忠=慶長の次 元和2年=明治維新の252年前 )
  ⇒ 中華民国(1912〜 1912=大正2年 )
  ⇒ 中華人民共和国(1949〜 1949=昭和24年=終戦の4年後 )

「漢音」の「漢」は、「周」の次の「漢」?
「呉音」の「呉」は、「漢」の次の「三国」 (魏、呉、蜀) の内の 「呉」?
「隋」は、「遣隋使」の「隋」。
「唐」は、「遣唐使」の「唐」。
「元」は、「元寇の役」の「元」。  文永の役(1274)& 弘安の役(1281)

阿片戦争」=1840[日本は 12代家慶]。 清×英。 英の横暴に清、苦汁を飲まされる。日本は危機を感じる。
日清戦争」=1894[明治27年]。
日中戦争」=1937[昭和12年]。日華事変とも。支那事変とも。
       この日中戦争において、1937年12月に南京陥落。
       南京陥落後、6週間にわたって日本軍が為したとされる出来事が、南京事件(又は南京虐殺)。
       虐殺うんぬんはともかく、論争されている出来事の時期はキッチリ覚えておこう。 p(・∩・)q

メモ2) 日本の歴史
1. 日本の歴史区分                         2.百人一首期の歴史概観メモ

  


3.漢字と格闘した古代日本人
外来語を自在に取り込める開かれた国際派言語・日本語。漢字との国際的格闘を通じて作られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog221.html
メモ) ↑の目次ページ ⇒ 国柄探訪 ↓
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/JOG_Guide2.htm
&若干それるけれど、「漢字の浸透」と「日本の技術」に関してなんとなく似たものを感じた関連記事。
⇒ 国柄探訪 日本の技術の底力
幕末の日本を訪れたペリー一行は、日本が工業大国になる日は近いと予言した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog274.html


4.日本語の起源
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.html
この「日本語の起源」のサイト内容は次のようになっています。
・韓国語と日本語
  その1
  その2
  その3
・カタカナとひらがな
  その1
  その2
  その3

この内私が面白かったところ、4箇所を一部抜粋してみます。
( 全文は ⇒ http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.html )
(1) 紀貫之は、ネットオカマのブロガーだった?
(2) カタカナの成り立ちと吉備真備(←奈良時代の人)
(3) ひらがなの成り立ちと弘法大師空海(←平安初期の人)
(4) 渡来人・帰化人・今来の人 について (日本の原始期・古代期を全般的に眺めてみて)

(注) この4つの見出しタイトルは私のフィーリングで勝手につけたモノです。


(1) 紀貫之は、ネットオカマのブロガーだった?
・カタカナとひらがな  その2 一部抜粋


ひらがな万葉仮名 の代わりの文字 ですから、最初の頃はひらがなだけで用いられていました。 やがてその書きやすさから男性の間にも普及するようになり、カタカナと同じように、漢字と一緒に用いられるようにもなります。 そして「平易な、あるいは非公式な平素の仮名」という意味から、「片仮名」に対して「平仮名」と呼ばれるようになったとされています。 「をとこもすなる日記といふものを、をんなもしてみむとてするなり」と、ネットオカマの元祖のような紀貫之が、女性を装って書いた「土佐日記」は、日本初のひらがなで書いた日記文学として有名です。


ここで、紀貫之に関してなど、補足。
35 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之

■紀貫之(きのつらゆき、870頃〜945、没年齢≒75才)
平安時代前&中期の人。 
紀友則(33番)の従兄弟。
当代一の歌人で、『古今集』の代表的選者。

Wikipediaで『土佐日記』を概観してみると次のようなことが書いてます。

 紀貫之(870頃〜945、没年齢約75才)が土佐の国から京まで帰京するさいに起きた出来事や思いなどを書いた日記。935年(承平5年)頃の作。
 930年(延長8年)から934年(承平4年)土佐の国の国司だった貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女性に仮託して仮名文で綴った。57首の和歌も含まれている。 中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。
 日本文学史上初めての「日記文学」。紀行に近い要素ももっていた。その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与え、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などが後に著される。日本文学史上初めてジョーク、駄洒落などを用いたことも特筆される。

 『土佐日記』に関して少しだけ立ち入って書いた「このブログ中の記事」があります。
  ⇒ 「紀貫之が阿倍仲麻呂の歌を詠む」 です。

参考)
蜻蛉日記(かげろう) ⇒ 著 藤原道綱母(53番 右大将道綱母←道長の父[兼家]の夫人)
和泉式部日記    ⇒ 著 和泉式部 (56番 歌人)
紫式部日記     ⇒ 著 紫式部  (57番 歌人)
更級日記(さらしな) ⇒ 著 菅原孝標女(※)

 菅原孝標女(ふじわらのたかすえのむすめ)
菅原道真の5代下。4代下の菅原孝標の次女。
母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。
『更級日記』は、作者の
13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの
約40年間の回想録。


(2) カタカナの成り立ちと吉備真備(←奈良時代の人)
・カタカナとひらがな  その1 一部抜粋


カタカナは、奈良時代後期の天平勝宝年間(西暦749-756年)に、吉備真備(695〜775≒80)が50音図と共に選定したと伝えられています。 しかしこれはあくまでも伝承で、実際には当時の多くの学者が協力して選定したと思われます。 そして「片仮名」という呼び名は、漢字の一部を取って作ったため、「片方だけの仮名(仮の文字あるいは借りた文字)」からきているとされています。

カタカナは漢文を訓読するための補助文字として作られた文字で、原則として漢字と一緒に使用され、カタカナだけで文章が書かれることはありませんでした。 そして、当時の日本では漢文を公式記録用の文字体系として用いていましたから、カタカナも公式補助文字として位置づけられ、主として公式の文章や学問的な堅い内容の文章に用いられました。


現在でも法律などのお堅い文章には漢文調の漢字+カタカナ文が用いられていますが、これは漢文とカタカナが公式文字体系だった名残です。


(3) ひらがなの成り立ちと弘法大師空海(←平安初期の人)
・カタカナとひらがな  その2 一部抜粋


ひらがなは、カタカナ選定の少し後、平安時代前期弘法大師 空海(774〜835≒61)が万葉仮名の草書体から作り、同時にその普及のために「いろは歌」も作ったとされています。 しかしこれも伝承にすぎず、実際には色々な人々の手によって作られたと思われます。 奈良時代後期から平安時代初期にかけて、和歌などの非公式な文章には、万葉仮名を草書体にした「草(そう)」という万葉仮名が用いられることが多くなります。 そして草をさらに簡略にしたものを「女手(おんなで)」と呼び、主として宮中の女官達によって作られ、女性の間で用いられていました。 これが後の「ひらがな」です。

そもそもある集団に文字が発生する条件としては、次のようなものがあると言われています。
・小共同体がいくつか分立していること。
・それらをまとめてカバーする、より大きな共同体が存在していること。
日本の弥生時代(紀元前300年〜紀元後300年頃)は、この条件をある程度満足していますから、原始的な絵文字程度のものが存在していても決して不思議ではありません。


(4) 渡来人・帰化人・今来の人 について (日本の原始期・古代期を全般的に眺めてみて)
・カタカナとひらがな  その3 一部抜粋


こうして古代日本語が形成されると同時に、縄文人の卓越した絵画能力と、渡来人の進んだ文化とが相まって、日本固有の絵文字が発明されます。 中国の漢字は志賀島の「漢委奴國王」の金印(紀元後57年)でわかるように、弥生時代中期にはすでに日本に伝わっていましたが、それを使いこなすまでには至っていなかったのです。


縄文時代晩期から弥生時代初期に渡来してきた人達の一部は、瀬戸内海を経由して、現在の畿内一帯に広がり、どことなく故郷の朝鮮半島内陸部を思わせるその土地に定住します。 彼等は早い時期に日本列島に渡来したため、縄文人との融合度が高く、比較的穏和な農耕民族となっていました。 そして馬鈴を発達させて銅鐸とし、農作業用の道具として利用したり、表面に絵文字を刻印して祭具として祭ったりしました。 こうして彼等は、畿内を中心として「銅鐸文化圏」を形成します。

弥生時代中期から後期に遅れて朝鮮半島から渡来してきた人達は、九州北部から瀬戸内海西部に広がり、畿内とは別のグループを形成します。 彼等は戦国時代になっていた中国大陸や朝鮮半島の影響を強く受けた、比較的好戦的な民族で、銅剣と銅鉾に象徴される「銅剣・銅鉾文化圏」を形成します。 やがて北九州一帯を統一したある部族が、畿内にいた部族まで支配下に組み入れようと東進を開始します。 この争いは大陸のより進んだ戦争道具、すなわち鉄器を中心にして武装していた九州の部族の勝利に終わり、彼らは畿内に進出して、以前からそこにいた多くの部族を支配下に入れます。 こうして日本初の統一王朝・大和朝廷が成立し、時代は古墳時代へと移ります。

古墳時代にも朝鮮半島から渡来人が沢山やって来ますが、日本が独立国としての体裁を整える奈良時代までは、渡来人は「今来(いまき)の人」と呼ばれていて、「帰化人」とは呼ばれていません。 これは、この時代の日本人の出自を考えれば当然のことです。 大和朝廷は出身地である朝鮮半島と密接な関係にあり、中国文化を取り入れるのにも積極的でした。 まず漢字を取り入れて漢文を国の公式な文字体系にし、ついで仏教を取り入れて、仏教を中心として国を治めていこうとします。 そして大化の改新の後、律令制度を取り入れて法治国家としての体裁を整え、各部族に伝わっていた神話と歴史を都合の良いように再編集して、天皇支配の正当性を強調します。


遣唐使は、630年から838年の19回、内4回は停止など。894年、菅原道真の進言により停止決定。

独立国としての体裁が整いますと、中国の物真似一辺倒から脱し、日本独自のものを確立しようとする動きがでてきます。 そのひとつが、文字体系を日本語に合ったものにしようとする動きです。 色々と試行錯誤した後、当時の国際社会の共通語である中国語からかけ離れないように、原則として漢文を中心とし、それを日本語で訓読するために補助的な表音文字を作ることになります。 その表音文字は基本的に漢字の一部を取って作るものの、適当な漢字がないものについては、各部族の間に伝わっていた日本古来の固有文字を流用することにしました。

(中略)

……もちろん以上のシナリオは全くの夢想にすぎませんが、ちょっとした疑問をとっかかりにして、こんな空想の翼を広げてみるのも楽しいものです。 日本の古代史には多くの謎がありますから、空想の翼を広げる余地は沢山あります。 特に宮内庁管轄の天皇陵古墳が発掘調査されないかぎり、当分、空想のネタに困ることはないでしょう。


追記)
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.htmlのサイト主さんの、
想像の翼の広がりと最後の「オチ」。なかなかの絶品です。
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外交史  日本の外交・明治編

1873年(明治6年)、岩倉使節団が海外視察から帰国。
以降、日本は急速に西洋化を推し進め「明治維新」を成し遂げる。しかしそれは、
西洋列強と対等の立場で交渉に臨みたいと願った日本外交の、不断の努力の表れだった。
幕末の時代、日本に架せられたひとつの不平等条約。
それの撤廃に至る道程を描く。(67分8秒。全7話)

・全7話を連続自動再生


ドイツ・ビスマルク首相の言葉
「大国は自分の都合の良いようにルールを扱い、小国を力で踏みにじることができる」。

明治初期、日本外交は幾多の場面でこの言葉を噛み締めることになる。
開国に際し西洋列強と締結した不平等条約。
これの是正の闘いは、
アジア諸国に向けられる絶えざる差別と偏見のただなかで、
日本が、戦争を介して外交を継続させんと、茨の道を歩み始めた瞬間でもあった。

■【外交史】日本の外交・明治編 :再生リスト(全7話)
http://www.youtube.com/view_play_list?gl=JP&hl=ja&p=B92CF80A794895B6

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日本の 天皇・天皇制について

語り手: 青山繁晴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B9%81%E6%99%B4
聞き手: 川崎さちえ
ヤフーオークション家、株式投資家、主婦、作家 、トレーダー。

■青山繁晴氏が語る 天皇制  その1/2


青山氏の言う、 16代天皇 仁徳天皇の歌 「民のかまど」 については、次のサイトが面白い。
・新古今和歌集の部屋
http://home.cilas.net/~jikan314/index.html の
・新古今和歌集の検索
http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu/kensaku.htm の
・卷第七 賀歌 (がのうた)
http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu/kanbetu/07.html の
・707 仁コ天皇御歌
http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu/kanbetu/07/0707.html
高き屋に のぼりて見れば 煙たつ  民のかまどは にぎはひにけり

たとえ、詠み人知らずの歌を 16代 仁徳天皇の歌とした、としても
そう言う発想が生まれる背景・土壌・民族性、
この歌の響きが「さもありなんと多くの人に支持される」ような君主と民衆の関係性、
が面白い(ユニーク・日本的)と、青山氏は言っているのでしょう。

私は、「日本の天皇制」は日本独自の文化と伝統であるので、君主云々はヌキにして、日本の貴重な文化財として大切にしていきたいとの考えを持っています。百人一首に接してそう思うようになりました。百人一首に深く接する遙か以前は、天皇制って「一部の家系の贅沢を公費でまかなう不公平かつ無駄な制度だ」と思っていました。しかし、百人一首と長く接してきたお陰で、今の私からすれば、「そういう浅薄な天皇制への認識」を脱して、私なりの「天皇制観」を持つに至りました。百人一首のお陰で、それなりに「自分自身の天皇制への認識」を得ることが出来たと言えます。

ただし、共産党の機関誌 『赤旗』 の記事ですが、次のような意見もあります。
こういう意見に対して、「そうかも知れないなぁ。それもごもっとそうなお話しだなぁ」 と言う思いも
頭の片隅に置いておく方が、健全と言えば健全でしょう。
個人的にであれ国家としてであれ、ひとりよがりの盲信や暴走を避けるためのバランサーとして。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-11-17/2007111712_01faq_0.html の末尾
貴族層はごく一部にすぎず、民衆は天皇崇拝とは無縁でした。平城京の人口は約10万人、貴族は百数十人、下級役人は数千人と推定されています。鎌倉から江戸時代まで、天皇の存在すら多くの人は知らなかったのです。天皇崇拝が強められるのは、明治になって絶対主義的天皇制が成立してからです。


「新古今和歌集」は 「八代集」の 最終和歌集。
後鳥羽上皇(82代天皇)の勅命で 編纂された。 編者は、
87.寂蓮(途中で没)、94.飛鳥井雅経、97.藤原定家、98.藤原家隆、源通具、六条有家。

本ブログ中の関連記事:
・「日本最古の文書群は、おおむね奈良時代(700年代)のもの」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/149953277.html 
・「八代集、 二十一代集、 について」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/154603184.html

■青山繁晴氏が語る 天皇制  その2/2



「民のかまど」 で私が連想したのは、 45代 聖武天皇の 「奈良の大仏」 。
聖武天皇は、仏教により国家の安定を願い、(=鎮護国家)
それのシンボルとして大仏造営を手がけた。
勿論、権力者のこの種の行為は示威行為と表裏一体ではあるのだけれど・・・。

聖武天皇の皇后は、「鎌足の息子、藤原不比等」の娘、光明子。
藤原不比等は、藤原定家の15代上。
・「定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/108517927.html
・「藤原不比等は 天智天皇の 落種」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/152497308.html

歴代天皇 簡易 一覧

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日本が 朝鮮を独立させた

動画1 「日露戦争の原因は朝鮮!」 を切っ掛けに
動画2 「日清戦争により日本が朝鮮を独立させた」 を見てみたら、面白かった。

(参考情報)
日清戦争、日露戦争、第一次大戦、関東大震災、がほぼ10年間隔で起こっている。
1894年、1904年、1914年、1923年。
明治0年は1867年、大正0年は1911年、昭和0年は1925年。
日清・日露・第一次&大震災は、
明治27年、明治37年、大正3年、大正12年。

次の3件、日中戦争・大東亜戦争の開戦・終戦は、キッチリ、4年間隔。
虐殺が何かと話題にされる南京事件は日中戦争(支那事変)の初頭のもの。1937年(昭和12年)。
原爆がからむ大東亜戦争(米国流に言うと太平洋戦争)開戦はその4年後。1941年(昭和16年)。
原爆投下は、1945年(昭和20年)。
広島が8月6日。長崎が8月9日。両市で約20万人の人々が一瞬又は短期間の内に亡くなる。
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 玉音放送
9月02日 降伏文書調印

動画1 「日露戦争の原因は朝鮮!」


上記YouTubeの講演者は「在日特権を許さない市民の会」の会長 桜井誠さん。
彼らの言動は幾分過激だけれど、「日朝間の歴史をかなり勉強している」のは確かである。
それは、彼らが言動活動を過激にせざるを得ないほどに、在日陣営が過激であり、
在日の圧力を受ける邦人陣営(公務員&一般大衆)が、
呑気(認識不足・勉強不足・危機感欠如)だから、なのだろう。

在日特権を許さない市民の会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E7%89%B9%E6%A8%A9%E3%82%92%E8%A8%B1%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%84%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%81%AE%E4%BC%9A

動画2 「日清戦争により日本が朝鮮を独立させた」

動画2の全講演内容は、
前編 http://zoome.jp/aboutjpn/diary/2/
後編 http://zoome.jp/aboutjpn/diary/4/

この前後編のお話は落語でも聞くつもりで聞いてみてみると面白いですよ。
朝鮮半島の人々は半島という地勢的な特徴で、その民族性が形成されたんですね。
それがよくわかるお話です。

同様に考えると、
中国人は中国大陸という地勢的な特徴で民族性が形成されたし
日本人は海に囲まれた列島という地勢的な特徴で民族性が形成されたわけです。
なので私は思います。
基本的に日本人は、おとなしくお人好しで平和好きで好奇心旺盛な民族だと。それは、古来から。
だって、日本の自然風土や気候そして地理的特徴は
有史以来(日本に文字が定着して以来)ずっと同じなのですから。

ちなみに、講師の村田春樹さんは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E6%98%A5%E6%A8%B9

学校で教える歴史は面白くないけど、こういう歴史の話は面白い。
勿論、馬鹿馬鹿しいと冷笑する人も多くいるのだろうけれど。

というのは、歴史マニア・歴史オタクに限って好みが激しいので
つまり、「自分の知識認識のみが絶対の真実だ」と思い込んでいるので
それ以外の見識を馬鹿にして冷笑するのですね。

こちらはただ、お話として面白いと言っているだけなのに。
そもそも、歴史に唯一無二のダレモが認める統一された見識なんて出しようがないのだから、
少なくとも、自国を大切に思いたいなら自国を大切に思え尊べるお話に耳を貸せばよいのですね。
好きこのんで「日本を否定し貶す話に耳を貸す」必要など無いのです。
そんなことは、日本人が黙ってても、
中国・韓国・北朝鮮が、日本人の私達がうんざりするほど、したい放題にしてくれているのですから。
日本人は民族性・国民性として、
冷静な事実への好奇心を持ちはしますが、敢えて相手を貶すようなことは出来ないものです。

ただし、どちらが良いか悪いかは、何とも言えないです。
少なくとも現在の日本の政治・行政は、そう言う日本の国民性の故に混迷&低迷していますし、
韓国は日本憎しでまとまって国力を伸ばせてますし、
中国は中国でいつかは日本を飲み込んでやると、虎視眈々と頑張ってはりますので。


大陸・半島・列島の地政学的民族性(わたくし的こじつけ見解・お笑い見解)
大陸
傲慢で、周りを属国視し、隙あらば暴力的侵略に出てくる。
君主の血統は、一定せず、戦いによってつねに大転換する。
少々の犠牲なんて、体制の維持のためになら、犠牲とも思わない。
知略・謀略(情報戦争)は彼らの得意技中の得意技。うん千年の歴史を持つ。 
孫子の『兵法』 
・敵を知り己を知る。百戦危うからず。
・一番の勝利は、戦わずして勝つことである。 (今の日本はほぼ完璧に中国のこの術中にはまってる)
そして、中国は日本よりはるかに残虐性に関して無頓着。
以上のようなことから「南京大虐殺館」なるアイデア(膨大化プロパガンダ)が浮かんだのだろう。
英国は、こういう中国と1840年アヘン戦争を起こしたのだから、英国もかなりしたたか。
それほどに当時の中国は、今以上の「中華思想」で自分が一番だとの意識に安住してたのでしょう。
半島
独立心が薄く、属国であるほうが平和であるとの意識があるので、
大国の属国であることに余り抵抗感がなかった。
なので、国家の方針が時代時代で日和見的となる。
争いのネタを周囲にまき散らしていることに、当のご本人は一向に気付かない、
もしくは、つねに第三者のせいにする。(責任転嫁体質・罪のなすりつけ体質)
自分たちの中国に対する属国意識の裏返しで、日本を自分たちの属国と思いたがる。
しかし、歴史的事実を冷静に見つめると、それができない。日本のほうがはるかに独自的。
そこで彼らは、日本に対する「ねたみ・うらみ・つらみ・・・」を強烈な怨念にまで昇華させ、
あらゆる手段を尽くす絶大なる半島パワー(反日パワー)を造り上げた。
さらに、日本がおとなしいのを良いことに、彼らは増長し、暴走し続けている。
列島
海で閉ざされているので基本的に他国からの侵略進出には安全。常に平和ボケ。
海が自然と国境を意識させるので、独自的な気風が育つ。お人好し。
相手を差別せず常に全力で「おもてなし」する。
基本的に、周りに気ばかり遣い自己主張が極端に少ない。
ただし、社会体制の急速な変革を得たいときには、素早くその手本を海外に求める。
馬鹿にされても黙っているようで、実は内心むらむらとした怨念を蓄積させる傾向を有している。
それが破裂した時には、本来的に自然な団結力を持っているので、小さいながらも大きなパワーを出す。
(隣国達は深層心理にこれへの不安があり、その恐れの裏返しとして反日教育に熱心なのかも)



■任那日本府(みまなにほんふ)の謎  1〜9
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任那日本府。当時の呼称は倭府(やまとのつかさ)?
日本書紀の欽明紀()に記されている「倭国の統治機関」。
古代朝鮮半島南部の「伽耶(かや)またはその一部である任那」にあったとされる。
実在については諸説があり、正確には分かっていない。しかし、
倭人のなにがしかの集団が同地域に存在していた、との見方が一般的理解となっている。
 29代欽明天皇   
・6世紀・古墳時代の天皇。 在位期間は539年〜571年の32年間ほど。
・33代推古天皇(歴代初の女性天皇)の父親。 欽明天皇&推古天皇近辺の天皇系図


■そして日本が生まれた 白村江の敗戦から律令国家へ  1〜8
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白村江の戦いは、663年。
これに大敗し天智天皇(百人一首1番歌人)は、相手の侵攻に備え都を大津に移した


■岩倉使節団 世界一周の旅  0〜5
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岩倉使節団の米欧各国訪問期間は、
往路(太平洋航路)&帰路(インド洋航路)の期間含めて、1年10ヶ月。
明治4年(1871年)11月12日から明治6年(1873年)9月13日。
 

■脱亜への道 江華島事件から日清戦争  1〜9
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江華島事件は、1875年。 日清戦争は、1894年。
福沢諭吉は、当初は同じ極東人として半島も共に成長して欲しいと願った。
しかしそれを待てば、西洋列強の怒濤に日本も飲み込まれてしまうと感じた。
結局、「彼らの選択は彼ら自身に委ねるしかない」と判断した。
これが、福沢諭吉の『脱亜入欧』という言葉の背景。
ただ、相手に迎合する必要はないけれど、相手の考えを理解するためには
「相手の立場で見ればどう見えるか」という姿勢も必要。
それはまた、自分の理解や認識を深めさせもする。


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