記事内容中、遣唐使(630〜894)の回次は 20回説 で表示。
第6次=唐に行かず。送唐客使、伊吉博徳。
第11次=停止。遣唐大使、石上乙麻呂。
第14次=船破損のため停止。
第15次=渡海できず停止。
第20次=唐に行かず。菅原道真の進言により遣唐使を廃止。894年。
飛鳥時代 ⇒ 570頃〜710年
奈良時代 ⇒ 710年〜794年
● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60)3番歌人 三十六歌仙 歌聖
● 山上憶良 (やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73) 遣唐使にも
● 山部赤人 (やまべのあかひと、 不詳 〜736頃 )4番歌人 三十六歌仙 歌聖
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、 不詳 〜757 ) 遣唐使に2度
● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、 698 〜770、 差72)7番歌人 遣唐使 唐で高官に 帰日は実らず
● 大伴家持 (おおとものやかもち、718 〜785、 差67)6番歌人 三十六歌仙 中納言家持
大伴古麻呂は、B大伴旅人の甥。
大伴家持は、 B大伴旅人の子。
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行 → ●大伴古麻呂
→ A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人 → ●大伴家持
● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60ほど)
飛鳥時代末期・奈良時代初期の歌人。三十六歌仙の一人。
山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
● 山上憶良(やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73ほど)
飛鳥時代末期・奈良時代初期の歌人。万葉歌人。
『万葉集』には78首が撰ばれている。(『万葉集』=4500首以上の和歌集。日本最古。)
春日氏の一族で、粟田氏の支族とされる。百済系帰化人説もあり。
憶良の歌の特徴としては、子どものことを想った歌や、病気や貧乏など人生の苦しい面やその時代の問題を詠んだ歌が多い。また、七夕を詠んだ歌も多く、長屋王邸や大伴旅人邸で詠んだ七夕の歌がある。百済系帰化人説もあり。
702年 (42才) 第8次遣唐使船に乗る。儒教や仏教など最新の学問を研鑽。
726年 (64才) 九州に赴任。そのときの大宰帥(だざいのそち)は、大伴旅人(6番 家持の父)。
この歌は良く耳にする ⇒ 「銀も金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」 山上憶良
山上憶良については、このページが面白い ⇒ 山上憶良 辞世の句
● 山部赤人(やまべのあかひと、不詳〜736頃)
飛鳥時代末期・奈良時代初期の歌人。三十六歌仙の一人。
柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。
下級官人 & 45代聖武天皇期の宮廷歌人と推測される。
● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698〜770、差72)
彦太忍信命(=孝元天皇の皇子)の血を引く。
698年 阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われる。
[入唐 by 9次船団]
717年 第9次遣唐使船に乗る。(含む、吉備真備,玄ム)
718年 第9次遣唐使船の帰り便で吉備真備,玄ムは帰国。(← 帰国後、奈良の大仏建立に関与)
仲麻呂は長安[唐の都]に在留し、科挙に合格。
唐朝諸官を歴任し唐朝の高官に登る。唐名は晁衡or朝衡(ちょうこう)。
[帰国の試み by 12次船団]
752年 第12次遣唐使船団入唐・4船。(遣唐大使=藤原清河、遣唐副使=吉備真備と大伴古麻呂)
遣唐副使、吉備真備と大伴古麻呂は2度目の入唐。真備は、9次と12次。古麻呂は、10次と12次。
754年 第12次遣唐使船団の帰国便(藤原清河の船)に仲麻呂乗るがベトナム方面へ流され帰国果たせず。
吉備真備の船、大伴古麻呂の船は無事帰国。&鑑真が渡日果たす(大伴古麻呂の船)。
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、不詳〜757)
奈良時代の貴族。2度、遣唐使として唐に渡る。
大伴御行の子。 大伴旅人の甥。
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行 → ●大伴古麻呂
→ A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人 → ●大伴家持
[1度目の入唐 by 10次船団]
732年 第10次遣唐使船で入唐。
735年 第10次遣唐使船で帰国。帰朝後、738年、兵部大丞、749年、左少弁。
[2度目の入唐 by 12次船団]
752年 第12次遣唐使船の遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
753年正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。
古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、
新羅の東畔第一席より下であったことに抗議。
新羅より上席に代えさせている。
754年 第12次遣唐使船の帰国にて。
遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じる。
大使藤原清河は唐の官憲に従い鑑真一行の乗船を拒否。
しかし古麻呂は独断でこれを許し、副使船に鑑真一行を乗船させる。
帰路、
大使船は暴風雨に遭い南方(ベトナム)に流され帰国果たせず。(藤原清河は唐で客死)
副使船は無事帰国し鑑真の来日を果たさす。同年、古麻呂は左大弁に任じられる。
● 大伴家持(おおとものやかもち、718〜785、差67)
奈良時代の政治家、歌人。三十六歌仙の一人。
大伴旅人の子。
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行 → ●大伴古麻呂
→ A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人 → ●大伴家持
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家。
『万葉集』には家持の長歌・短歌など合計473首が収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。
このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。
『万葉集』の最後の歌は家持の歌(※)。
⇒ 「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)」
740年 九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
745年 従五位下に叙せられる。
746年 3月に宮内少輔、7月に越中国国守に任ぜられる。(〜751年)
この間に220余首の歌を詠む。
755年 難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
758年 因幡国国守。
759年 因幡国国府で万葉集の最後の歌(※)を詠む。(1月)
776年 伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
780年 参議に昇進したものの、
氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、
政治家として骨太な面を見ることができる。
783年 中納言に昇進するが、兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のため、
陸奥に滞在中に没した。
大伴家系を少しだけ垣間見てみる。
飛鳥時代 ⇒ 570頃〜710年
奈良時代 ⇒ 710年〜794年
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行 → ●大伴古麻呂
→ A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人 → ●大伴家持
@ 大伴長徳(おおとものながとこ、生年不明〜651)
飛鳥時代の豪族。 姓(かばね)は連(むらじ)。別名、馬飼・馬養(うまかい)。
大伴咋(おおとものくい)の子。大伴馬来田・大伴吹負、は長徳の弟。
632年 第1回の遣隋使とそれに伴った唐使高表仁(こうひょうにん)を難波で出迎え。
642年 舒明天皇の殯宮では誄(しのびごと)を蘇我蝦夷に代わって奏上。
645年 大化の改新では中大兄皇子側であったようである。
A 大伴御行(おおとものみゆき、646?〜701、差55?)
飛鳥時代の人。
大伴長徳の子。(五男)
672年 壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側について功を立てた。
天武天皇の時代に兵政官の大輔。
持統天皇、文武天皇の代には高い地位にあり、大納言に昇った。
『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」は
この御行をモデルにしているとされる。
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、不詳〜757)
奈良時代の貴族。2度、遣唐使として唐に渡る。
大伴御行の子。 大伴旅人の甥。
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行 → ●大伴古麻呂
→ A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人 → ●大伴家持
[1度目の入唐 by 10次船団]
732年 第10次遣唐使船で入唐。
735年 第10次遣唐使船で帰国。帰朝後、738年、兵部大丞、749年、左少弁。
[2度目の入唐 by 12次船団]
752年 第12次遣唐使船の遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
753年正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。
古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、
新羅の東畔第一席より下であったことに抗議。
新羅より上席に代えさせている。
754年 第12次遣唐使船の帰国にて。
遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じる。
大使藤原清河は唐の官憲に従い鑑真一行の乗船を拒否。
しかし古麻呂は独断でこれを許し、副使船に鑑真一行を乗船させる。
帰路、
大使船は暴風雨に遭い南方(ベトナム)に流され帰国果たせず。(藤原清河は唐で客死)
副使船は無事帰国し鑑真の来日を果たさす。同年、古麻呂は左大弁に任じられる。
A 大伴安麻呂(おおとものやすまろ、生年不明〜714)
飛鳥時代から奈良時代の人。
大伴長徳の子(六男)。
672年 壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者になった。
701年 兄・大納言大伴御行、没。
702年 参議として公卿に列す。
705年 大納言に。
B 大伴旅人(おおとものたびと、665〜731、差66)
奈良時代初期の政治家、歌人。
大伴安麻呂の子。
『懐風藻』(漢詩集)に漢詩が収められ、
『万葉集』にも和歌78首選出されているが、
和歌の多くは大宰帥任官以後のものである。
酒を讃むるの歌十三首を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られる。
714年 父の安麻呂が亡くなる。
718年 中納言に任じられる。
720年 山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧。
724年 大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成。(〜729年)
730年 大納言に任じられ京に戻る。
731年 従二位に昇進するが、まもなく病を得て没す。
● 大伴家持(おおとものやかもち、718〜785、差67)
奈良時代の政治家、歌人。三十六歌仙の一人。
大伴旅人の子。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家。
『万葉集』には家持の長歌・短歌など合計473首が収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。
このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。
『万葉集』の最後の歌は家持の歌(※)。
⇒ 「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)」
740年 九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
745年 従五位下に叙せられる。
746年 3月に宮内少輔、7月に越中国国守に任ぜられる。(〜751年)
この間に220余首の歌を詠む。
755年 難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
758年 因幡国国守。
759年 因幡国国府で万葉集の最後の歌(※)を詠む。(1月)
776年 伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
780年 参議に昇進したものの、
氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、
政治家として骨太な面を見ることができる。
783年 中納言に昇進するが、兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のため、
陸奥に滞在中に没した。