万葉歌人に関心を持ってみた


記事内容中、遣唐使(630〜894)の回次は 20回説 で表示。 
第6次=唐に行かず。送唐客使、伊吉博徳。
第11次=停止。遣唐大使、石上乙麻呂。
第14次=船破損のため停止。
第15次=渡海できず停止。
第20次=唐に行かず。菅原道真の進言により遣唐使を廃止。894年。


飛鳥時代 ⇒ 570頃〜710年
奈良時代 ⇒ 710年〜794年

● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60)3番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 山上憶良 (やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73)     遣唐使にも
● 山部赤人 (やまべのあかひと、 不詳 〜736頃   )4番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、 不詳 〜757    )     遣唐使に2度
● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、  698 〜770、 差72)7番歌人 遣唐使 唐で高官に 帰日は実らず
● 大伴家持 (おおとものやかもち、718 〜785、 差67)6番歌人 三十六歌仙  中納言家持



大伴古麻呂は、B大伴旅人の甥。
大伴家持は、 B大伴旅人の子。
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持



● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60ほど)
飛鳥時代末期・奈良時代初期の歌人。三十六歌仙の一人。
山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。


● 山上憶良(やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73ほど)
飛鳥時代末期・奈良時代初期の歌人。万葉歌人。
『万葉集』には78首が撰ばれている。(『万葉集』=4500首以上の和歌集。日本最古。)
春日氏の一族で、粟田氏の支族とされる。百済系帰化人説もあり。
憶良の歌の特徴としては、子どものことを想った歌や、病気や貧乏など人生の苦しい面やその時代の問題を詠んだ歌が多い。また、七夕を詠んだ歌も多く、長屋王邸や大伴旅人邸で詠んだ七夕の歌がある。百済系帰化人説もあり。
702年 (42才) 第8次遣唐使船に乗る。儒教や仏教など最新の学問を研鑽。
726年 (64才) 九州に赴任。そのときの大宰帥(だざいのそち)は、大伴旅人(6番 家持の父)。
この歌は良く耳にする ⇒ 「銀も金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」 山上憶良
山上憶良については、このページが面白い ⇒ 山上憶良 辞世の句


● 山部赤人(やまべのあかひと、不詳〜736頃)
飛鳥時代末期・奈良時代初期の歌人。三十六歌仙の一人。
柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。
下級官人 & 45代聖武天皇期の宮廷歌人と推測される。


● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698〜770、差72)
彦太忍信命(=孝元天皇の皇子)の血を引く。
698年 阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われる。

[入唐 by 9次船団]
717年 第9次遣唐使船に乗る。(含む、吉備真備,玄ム)
718年 第9次遣唐使船の帰り便で吉備真備,玄ムは帰国。(← 帰国後、奈良の大仏建立に関与)
   仲麻呂は長安[唐の都]に在留し、科挙に合格。
   唐朝諸官を歴任し唐朝の高官に登る。唐名は晁衡or朝衡(ちょうこう)。

[帰国の試み by 12次船団]
752年 第12次遣唐使船団入唐・4船。(遣唐大使=藤原清河、遣唐副使=吉備真備と大伴古麻呂)
   遣唐副使、吉備真備と大伴古麻呂は2度目の入唐。真備は、9次と12次。古麻呂は、10次と12次。
754年 第12次遣唐使船団の帰国便(藤原清河の船)に仲麻呂乗るがベトナム方面へ流され帰国果たせず。
   吉備真備の船、大伴古麻呂の船は無事帰国。&鑑真が渡日果たす(大伴古麻呂の船)。


● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、不詳〜757)
奈良時代の貴族。2度、遣唐使として唐に渡る。
大伴御行の子。 大伴旅人の甥。

@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持

[1度目の入唐 by 10次船団]
732年 第10次遣唐使船で入唐。
735年 第10次遣唐使船で帰国。帰朝後、738年、兵部大丞、749年、左少弁。

[2度目の入唐 by 12次船団]
752年 第12次遣唐使船の遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
   753年正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。
   古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、
   新羅の東畔第一席より下であったことに抗議。
   新羅より上席に代えさせている。
754年 第12次遣唐使船の帰国にて。
   遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じる。
   大使藤原清河は唐の官憲に従い鑑真一行の乗船を拒否。
   しかし古麻呂は独断でこれを許し、副使船に鑑真一行を乗船させる。
   帰路、
   大使船は暴風雨に遭い南方(ベトナム)に流され帰国果たせず。(藤原清河は唐で客死)
   副使船は無事帰国し鑑真の来日を果たさす。同年、古麻呂は左大弁に任じられる。


● 大伴家持(おおとものやかもち、718〜785、差67)
奈良時代の政治家、歌人。三十六歌仙の一人。
大伴旅人の子。

@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家。
『万葉集』には家持の長歌・短歌など合計473首が収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。
このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。
『万葉集』の最後の歌は家持の歌(※)。
⇒ 「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)」

740年 九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
745年 従五位下に叙せられる。
746年 3月に宮内少輔、7月に越中国国守に任ぜられる。(〜751年)
    この間に220余首の歌を詠む。
755年 難波で防人の検校に関わる。
    この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
758年 因幡国国守。
759年 因幡国国府で万葉集の最後の歌(※)を詠む。(1月)
776年 伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
780年 参議に昇進したものの、
    氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、
    政治家として骨太な面を見ることができる。
783年 中納言に昇進するが、兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のため、
    陸奥に滞在中に没した。





大伴家系を少しだけ垣間見てみる。

飛鳥時代 ⇒ 570頃〜710年
奈良時代 ⇒ 710年〜794年

@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持


@ 大伴長徳(おおとものながとこ、生年不明〜651)
飛鳥時代の豪族。 姓(かばね)は連(むらじ)。別名、馬飼・馬養(うまかい)。
大伴咋(おおとものくい)の子。大伴馬来田・大伴吹負、は長徳の弟。

632年 第1回の遣隋使とそれに伴った唐使高表仁(こうひょうにん)を難波で出迎え。
642年 舒明天皇の殯宮では誄(しのびごと)を蘇我蝦夷に代わって奏上。
645年 大化の改新では中大兄皇子側であったようである。


A 大伴御行(おおとものみゆき、646?〜701、差55?)
飛鳥時代の人。
大伴長徳の子。(五男)

672年 壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の側について功を立てた。
   天武天皇の時代に兵政官の大輔。
   持統天皇、文武天皇の代には高い地位にあり、大納言に昇った。
   『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」は
    この御行をモデルにしているとされる。


● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、不詳〜757)
奈良時代の貴族。2度、遣唐使として唐に渡る。
大伴御行の子。 大伴旅人の甥。

@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持

[1度目の入唐 by 10次船団]
732年 第10次遣唐使船で入唐。
735年 第10次遣唐使船で帰国。帰朝後、738年、兵部大丞、749年、左少弁。

[2度目の入唐 by 12次船団]
752年 第12次遣唐使船の遣唐副使に任じられ、大使藤原清河とともに入唐。
   753年正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。
   古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、
   新羅の東畔第一席より下であったことに抗議。
   新羅より上席に代えさせている。
754年 第12次遣唐使船の帰国にて。
   遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じる。
   大使藤原清河は唐の官憲に従い鑑真一行の乗船を拒否。
   しかし古麻呂は独断でこれを許し、副使船に鑑真一行を乗船させる。
   帰路、
   大使船は暴風雨に遭い南方(ベトナム)に流され帰国果たせず。(藤原清河は唐で客死)
   副使船は無事帰国し鑑真の来日を果たさす。同年、古麻呂は左大弁に任じられる。


A 大伴安麻呂(おおとものやすまろ、生年不明〜714)
飛鳥時代から奈良時代の人。
大伴長徳の子(六男)。

672年 壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側に立ち、大伴吹負からの連絡の使者になった。
701年 兄・大納言大伴御行、没。
702年 参議として公卿に列す。
705年 大納言に。


B 大伴旅人(おおとものたびと、665〜731、差66)
奈良時代初期の政治家、歌人。
大伴安麻呂の子。

『懐風藻』(漢詩集)に漢詩が収められ、
『万葉集』にも和歌78首選出されているが、
和歌の多くは大宰帥任官以後のものである。
酒を讃むるの歌十三首を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られる。

714年 父の安麻呂が亡くなる。
718年 中納言に任じられる。
720年 山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧。
724年 大宰帥として九州の大宰府に赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成。(〜729年)
730年 大納言に任じられ京に戻る。
731年 従二位に昇進するが、まもなく病を得て没す。


● 大伴家持(おおとものやかもち、718〜785、差67)
奈良時代の政治家、歌人。三十六歌仙の一人。
大伴旅人の子。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家。
『万葉集』には家持の長歌・短歌など合計473首が収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。
このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。
『万葉集』の最後の歌は家持の歌(※)。
⇒ 「新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事(よごと)」

740年 九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
745年 従五位下に叙せられる。
746年 3月に宮内少輔、7月に越中国国守に任ぜられる。(〜751年)
    この間に220余首の歌を詠む。
755年 難波で防人の検校に関わる。
    この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
758年 因幡国国守。
759年 因幡国国府で万葉集の最後の歌(※)を詠む。(1月)
776年 伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
780年 参議に昇進したものの、
    氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、
    政治家として骨太な面を見ることができる。
783年 中納言に昇進するが、兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のため、
    陸奥に滞在中に没した。
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万葉集について


上記YouTube後半で歌われる、万葉歌 人気投票結果 ベスト10。
02-0105 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし     大伯皇女
05-0803 銀も金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも          山上憶良
01-0008 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな    額田王
01-0048 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ      柿本人麻呂
04-0661 恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば     大伴坂上郎女
03-0318 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける  山部赤人
01-0028 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山        持統天皇
20-4516 新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け吉事        大伴家持
      家持、759年元旦。 因幡の国(鳥取県東部)に国守として赴任していた
08-1484 石走る 垂水の上の さわらびの 萌える出づる春に なりにけるかも   志貴皇子
01-0020 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る       額田王
      額田王、668年5月5日。 近江の国 蒲生野 天智天皇 催す薬猟(※) にて


※ 薬猟(くすりがり)
陰暦五月五日に、山野に出て薬草や鹿の若角をとる行事。薬草摘み。薬採り。[季語=夏]

&聖徳太子の歌とされている、「万葉集」の中での唯一の歌。
家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ     聖徳太子 万葉集 巻3−415
いえ  いも て      たび こ     たびと



以下、ネット散歩でみつけた面白かったサイト3つ。

1.万葉集を読む
http://manyo.hix05.com/index.html
http://manyo.hix05.com/sitemap.html

『万葉集を読む』 の 【万葉の世紀】一部抜粋。
 大伴家持(※1)は、彼以前に存在した様々な歌の資料(※2)をもとに自分自身のための作歌帳(歌集)を作っていた。名門の貴公子として、家持には宮廷周辺に存在したと思われるそれらの資料に触れる機会があったのだろう。家持は死後、同族の絡んだ事件(※3)に連座して名誉を奪われ、家財没収の憂き目に会う。そのときに家持の作歌帳も没収され朝廷の所有に帰した。これが万葉集として世に伝わることとなったのである。
 家持の選んだ歌は、数首ほどの歌を別にすれば、最も古いもので7世紀後半、大化の改新以降のものである。また彼自身は、天平宝字3年(759)、正月を寿(ことぶ)いて歌った歌(=上YouTubeの巻20-4516歌)を最後に歌わなくなってしまった。この間にあって、万葉集がカバーする時代は約100年間である。この百年を「万葉の世紀」とも言う。
※1 生没年 718頃〜785、差67頃。 まったくの奈良時代(710〜794)の人。
   45代聖武天皇期と、平城京から都が移ろうとしている期(50代桓武天皇期 の前期)の人。
※2 宮廷にささげられたものの記録や、柿本人麻呂歌集のような個人の歌集
※3 50代桓武天皇期 在位781〜805 の2事件?
<事件1> 782年 氷上川継の乱 
氷上川継orその取り巻きが、
44代光仁天皇即位によって 天智系に移ってしまった皇位を 川継側(天武系)に戻そうとした為の揉め事。
氷上川継は、40代天武天皇の ひ孫。ただし、川継は藤原仲麻呂の乱[764年]で皇嗣からは外されていた。
<事件2> 785年 藤原種継暗殺事件
784年、桓武天皇が政治刷新のため、平城京から長岡京に都を移した。翌785年、その新都造営の中心人物である藤原種継が暗殺された。事件直前に死去した大伴家持は首謀者として官籍から除名された。 この桓武朝期、色んな忌事が続き、結局新都が794年に平安京となる(鳴くよウグイス平安京)。
ところで)
「伴造意識」って何?
「伴造」の読みは、「とものみやつこ」。wikipediaにはこう書いている。
それから推察するに、「伴造意識=帝への忠誠心」と言ったところでしょうか。
【万葉の世紀】全部は ⇒ http://manyo.hix05.com/intro.html

『万葉集を読む』 の 【王朝の周辺】 一部抜粋。
 万葉集巻一、巻二は各天皇の御世ごとに編年体の形式をとって、それぞれの時代を代表する歌を納めている。巻一には21代雄略天皇、巻二には16代仁徳天皇の歌とされるものが冒頭を飾っているが、実質的にカバーしているのは、38代天智天皇から45代聖武天皇までの時代、約百年間である。
参考)
 16代 仁徳天皇 在位 313〜399  古墳時代
 21代 雄略天皇 在位 456〜479   同上
 38代 天智天皇 在位 661〜671  飛鳥時代
 45代 聖武天皇 在位 724〜749  奈良時代
【王朝の周辺】全部は ⇒ http://manyo.hix05.com/ocho/ocho.index.html


2.ココロニマドヲ 万葉集  (JR東海の美しいサイト)
動画表示も用意されていてその内容も素晴らしい
http://www.manyoshu.jp/top.html
一例) 「万葉集」最終歌(巻20 4516番歌  大伴家持 歌 )
http://www.manyoshu.jp/contents/001-20-4516/


3.楽しい万葉集
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/index.html
巻1から巻20の概説
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/volume.html
巻ごとに歌の紹介&解説
巻01 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/one/home.html
巻02 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/two/home.html
巻03 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/three/home.html
巻04 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/four/home.html
巻05 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/five/home.html
巻06 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/six/home.html
巻07 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/seven/home.html
巻08 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/eight/home.html
巻09 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nine/home.html
巻10 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/ten/home.html
巻11 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/eleven/home.html
巻12 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/twelve/home.html
巻13 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/thirteen/home.html
巻14 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/fourteen/home.html
巻15 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/fifteen/home.html
巻16 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/sixteen/home.html
巻17 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/seventeen/home.html
巻18 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/eighteen/home.html
巻19 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/nineteen/home.html
巻20 http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/twenty/home.html



『万葉集』
7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた。
日本に現存する最古の和歌集。
天皇、貴族から下級官人、防人など、様々な身分の人間が詠んだ歌を
20巻にわたって、4516首 集めたもの。
成立は759年(天平宝字3年、奈良時代半ば、8世紀後半)以後と見られる。

日本文学における第一級の資料。
方言による歌もいくつか収録されており、
詠み人の出身地も記録されていることから、
言語学の資料としても非常に重要な資料である。


『万葉集』の編者について
『万葉集』の成立に関しては詳しくは判っていない。
編者の説としては、勅撰説、橘諸兄説、大伴家持説など、種々の説がある。
現在では家持説が最有力。
妥当な説として次のように言われている。
『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、
巻によって編者が異なるが、
家持の手によって二十巻に最終的にまとめられた。


書名の由来
『万葉集』の名前の意味については、幾つかの説が提唱されている。
・説1
「万の言の葉」を集めたとする説。
「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するもの。
これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。
仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、
やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。
ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るので、
この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、
そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることに疑義を呈する人もいる。
・説2
「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説。
・説3
葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説。
・説4
研究者の間で主流になっている説。
『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、
「葉」を「世」の意味にとり、
「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」と取る考え方である。


小倉百人一首の百首の時期と 日本史の 照らし合わせ


小倉百人一首 百歌人の生没年分布図

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万葉歌人 山上憶良 について  生没年 660頃〜733頃、差73

百人一首の 飛鳥時代 & 奈良時代 の歌人のことを調べていたら、「万葉集」に辿り着いた。
万葉集に辿り着くと、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴家持(中納言家持)、といった人が
万葉歌人と言われていることを知った。そこで、これらの人の事を少し詳しく見てみると、結構面白い。

百人一首歌人 生没年概略図

飛鳥時代  570頃〜 710年  1〜 3番  (= 38代天智天皇、 ←の娘41代持統天皇、柿本人麻呂)
奈良時代  710年〜 794年  4〜 7番  (= 山部赤人、猿丸太夫、中納言家持、阿倍仲麻呂)
平安前期  794年〜 930頃  8〜39番  (39番は、参議等=源等)
平安中期  930頃〜1060頃 40〜65番(=相模) + 68三条院、69能因法師、70良暹法師
平安後期 1060頃〜1192年 66大僧正行尊、67周防内侍 + 71〜92番  (92番は、二条院讃岐)
鎌倉時代 1192年〜1333年 93〜100番  (99、100番は、82代後鳥羽天皇 &その子 84代順徳天皇)



百人一首の5番が、山上憶良の歌なら、
百人一首の3〜6番まで、まったく冒頭の万葉歌人の順番になるのだけど・・・。
  
・百人一首 3番〜6番
03 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂
04 田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ    山部赤人
05 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき       猿丸太夫
06 かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける   中納言家持(=大伴家持)

・万葉集 から 山上憶良の歌 (憶良の歌の傾向を示す6例)
巻5-0802 瓜食(は)めば 子供思ほゆ 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ
      いづくより来たりしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ
原文:    宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由
      伊豆久欲利枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農
巻5-0803 銀も金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及(し)かめやも
巻5-0878 言ひつつも後こそ知らめ暫(との)しくも 寂しけめやも君いまさずして
巻5-0882 吾が主の御霊賜ひて春さらば 奈良の都に召上げ賜はね
巻8-1518 天の川相向き立ちて吾(あ)が恋ひし 君来ますなり紐解き設(ま)けな
巻8-1519 久かたの天の川瀬に船浮けて 今夜か君が我許(あがり)来まさむ
0802,0803 は 「子を思う歌」 。 ← この2首を歌った素敵なYouTubeがあります(下記、@、A)。
       @YouTube1 歌、AYouTube2 ヒチリコ演奏のみ
0878,0882 は 億良が 旅人(大伴旅人)にあてた歌。 ← 旅人が太宰府長官の職を終え都へ戻る際の歌
       旅人は、憶良のアトに太宰府に赴任した役人(憶良の上司)、&家持の父。
       旅人は、724〜729 の約5年、大宰帥(だざいのそち。大宰府長官)を務める。
       旅人は、妻&息子家持も太宰府に連れてきていた。(妻は着任中に没)
       旅人親子が太宰府を離れるとき(729末)、家持は、11、12才。
       旅人は731年(約66才)、憶良は733年(約73才)、に没している。
       山上憶良:日本晩夏と大伴旅人との交友
       万葉集における太宰府 (旅人と憶良と家持)
1518,1519 は 「七夕の歌」 。
       憶良の歌は、病や貧困・子供・七夕 の歌が多く、旅人との交流歌も多い。

(以上での私の雑感)
・家持の百人一首6番歌 「かささぎの〜」は、憶良の「七夕好き」に影響された歌かも知れない。
・憶良を知るのに勉強になったサイト
  → 憶良辞世の句  をのこやも空しかるべき萬代に 語り継ぐべき名は立てずして


上記万葉四歌人 など の生没年(没年順)
● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60) 3番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴旅人 (おおとものたびと、 665年〜731年、差66)
● 山上憶良 (やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73)      遣唐使 にも
● 山部赤人 (やまべのあかひと、 不詳 〜736頃   ) 4番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、 不詳 〜757    )      遣唐使 に2度
● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、  698 〜770、 差72) 7番歌人 遣唐使 唐で高官に 帰日実らず
● 大伴家持 (おおとものやかもち、718 〜785、 差67) 6番歌人 三十六歌仙     中納言家持


小倉百人一首と日本史の照らし合わせ
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大伴家持はどんな人? 伴造意識? 「海ゆかば」 は 家持の作?

百人一首の 飛鳥時代 & 奈良時代 の歌人のことを調べていたら、「万葉集」に辿り着いた。
万葉集に辿り着くと、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴家持(中納言家持)、といった人が
万葉歌人と言われていることを知った。そこで、これらの人の事を少し詳しく見てみると、結構面白い。

百人一首歌人 生没年概略図

飛鳥時代  570頃〜 710年  1〜 3番  (= 38代天智天皇、 ←の娘41代持統天皇、柿本人麻呂)
奈良時代  710年〜 794年  4〜 7番  (= 山部赤人、猿丸太夫、中納言家持、阿倍仲麻呂)
平安前期  794年〜 930頃  8〜39番  (39番は、参議等=源等)
平安中期  930頃〜1060頃 40〜65番(=相模) + 68三条院、69能因法師、70良暹法師
平安後期 1060頃〜1192年 66大僧正行尊、67周防内侍 + 71〜92番  (92番は、二条院讃岐)
鎌倉時代 1192年〜1333年 93〜100番  (99、100番は、82代後鳥羽天皇 &その子 84代順徳天皇)



上記万葉四歌人 など の生没年(没年順)
● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60) 3番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴旅人(おおとものたびと、  665年〜731年、差66)
● 山上憶良 (やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73)      遣唐使 にも
● 山部赤人 (やまべのあかひと、 不詳 〜736頃   ) 4番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、 不詳 〜757    )      遣唐使 に2度
● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、  698 〜770、 差72) 7番歌人 遣唐使 唐で高官に 帰日実らず
● 大伴家持 (おおとものやかもち、718 〜785、 差67) 6番歌人 三十六歌仙     中納言家持

大伴家持に関する簡単系図
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持
大伴古麻呂は、家持の父 の従兄弟。
大伴旅人は、 家持の父。



そもそも「大伴」って、どんな「氏」なのでしょう?
海ゆかば:大伴家持の伴造意識(万葉集)
http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakmochi.umiyukaba.html
の内容を一部抜粋させていただきます。
45代聖武天皇(※1)は、当時(※2)の諸々の忌事を憂え、救いを仏教に求めた。そして、仏教布教のシンボルとして東大寺大仏の建立を始める。そのさなかに、奥州で金が発見され、大仏建立のために寄進されるということがおきた。喜んだ聖武天皇は、東大寺に赴いて、宣命を発した。その中で、黄金の発見が皇祖の恵であることを述べ、人民にその恵を分かち与えるとともに、臣下の労をねぎらった。その際に、大伴、佐伯の二氏に対して、天皇への忠誠をあらためて訴えた。

(※1&2) 45代聖武天皇  ⇒  奈良時代の象徴的天皇
奈良時代  710〜794、差84年。  およそ、43代元明天皇〜49代光仁天皇の期間
生没年   701〜756、差55年。
在位期   724〜749、差25年。   (目安:23才〜48才)
東大寺仏像(東大寺盧舎那仏像、奈良の大仏)  制作開始〜完成(開眼供養会)の年差=7年
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作開始
      天平勝宝 4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。


大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、特別な家柄であった。物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきたのである。天皇は、この内乱の危機をはらんだ時代を憂えて、あらためてことさらに、両氏へ忠誠を求めたのである。その宣命の中に、次のような言葉がある。

大伴佐伯の宿禰(すくね)は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(続日本紀)

「海行かば水浸く屍山行かば草生す屍」の一節は、大伴佐伯両氏の間に伝わっていた戦闘歌謡であった。

この時、家持は越中にあったが、使者を通じて宣命を知り、また贈位を賜った。感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えた。この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の、「伴造意識」が鮮やかに表れている。我々はそれを読むことによって、「古代における氏族の意識の一端」に触れることができる。

ところで、「伴造意識」って?
まず、「伴造」を調べてみました。
「伴造」、読みは「とものみやつこ」。  「伴」=とも 「造」=みやつこ
連(むらじ)とも重なり、また連の下でヤマト王権の各部司を分掌した豪族。
伴造には、秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)など代表的な帰化氏族がある。 他に、
弓削(ゆげ)、矢集(やずめ)、服部(はとり)、犬養(いぬかい)、舂米(つきしね)、倭文(しとり)などの氏がある。
彼らは、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(かばね)を称した。

つまり、「伴造意識」とは。  ( ← こちらの読みは「ばんぞういしき」かも知れません)
上の「伴造(とものみやつこ)」から推察するに、「伴造意識」って、「帝(主君)に対する忠誠心」でしょうね。


大伴家持の歌の例
百人一首の6番  家持の最終職位は「中納言」
かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける
万葉集 巻18−4094  (長歌)
葦原の瑞穂の国を天下り知らしめしける.......

この長歌の2/3ほどの所で次の下りがある。
  海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね) 山行かば 草生(む)す 屍
  大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじ

  現代語訳)
  海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、
  大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない。

こういう歌を歌う気持ちを「伴造意識」って言うのでしょうね。
この長歌の全文は、wikipediaの「海ゆかば」にも 現代語訳と共に 載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0#.E5.8E.9F.E6.AD.8C
万葉集 巻20−4516  万葉集の最後の歌  & 万葉集は全20巻
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け吉事
http://www.manyoshu.jp/contents/001-20-4516/


(参考サイト&ページ)
「万葉集を読む」
http://manyo.hix05.com/index.html
「万葉集を読む」 の 大伴家持
http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.index.html
「万葉集を読む」 の 万葉の世紀(万葉集と大伴家持)
http://manyo.hix05.com/intro.html
「万葉集を読む」 の 海ゆかば:大伴家持の伴造意識(万葉集)
http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakmochi.umiyukaba.html


YouTube 「海ゆかば」

海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね)  山行かば 草生(くさむ)す 屍(かばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ  顧(かへり)みはせじ

YouTube 「海ゆかば」  雅楽版



トリヴィア 日本国国歌 「君が代」
  歌詞の原形は、平安時代前期に編纂された 『古今和歌集』(※) に載っている歌。
  「君が代」に最初に曲をつけた作曲者は英国人?

※ 最初の勅撰和歌集。60代醍醐天皇(在位897〜930、差33年) の勅命によって編まれた。
  平安前期の延喜5年(905年)に成立、同年4月18日(5月29日)に醍醐天皇に奏上。
  撰者は紀貫之、紀友則(編纂途中で没)、壬生忠岑、凡河内躬恒。
  『万葉集』から、撰者らの時代までの140年間の名歌を集めている。 『古今集』とも言う。

雅楽による 君が代



最後に、wikipediaの「大伴家持」を整理してみました。

大伴家持 ⇒ 生没年、718年頃〜785年10月5日。67才頃に没。全くの奈良時代の人。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家である。
祖父・安麻呂、父・旅人と同じく家持も政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

718年 誕生。
730年 父旅人の任地であった太宰府から帰都。
746年 越中(≒富山県)に赴任。751年まで。この間に220余首の歌を詠んだ。
751年 都に戻る。
755年 難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながる。
758年 因幡に赴任。
759年 1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。 (巻20-4516)
      ⇒ http://www.manyoshu.jp/contents/001-20-4516/
764年 薩摩に赴任。(757年の藤原仲麻呂暗殺計画立案の嫌疑のため)
770年 帰都。48代称徳天皇が没すると各種要職に就く。&上総・伊勢と大国の守を歴任。
782年 氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放される。
785年 陸奥国で没。 (生没年差=67年)。
      陸奥按察使持節征東将軍の職務のため陸奥国に滞在していたため。
      没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、
      家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に配流となった。

家持生没年、718年頃〜785年10月5日。67才頃に没。全くの奈良時代の人。
806年 罪を赦され、位も従三位に戻された。

これを見ると、大伴家持って色んな所を赴任した(赴任させられた)人だと分かる。それと、当時すでに今で言う「都道府県庁」的なものが日本各地に置かれていたんだなと分かる。少なくとも、家持の情報からは、東北・北陸・山陰・九州(福岡地域)・九州(鹿児島地域)、に地域統治の施設があったんでしょう。

小倉百人一首と日本史の照らし合わせ
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万葉集 と 万葉歌人

万葉集 と 万葉歌人  関連記事の 目次です。


1 万葉集について

2 万葉歌人に少し関心を持ってみた。

3 大伴家持はどんな人? 伴造意識って? 「海ゆかば」 は 家持の作?

4 万葉歌人 山上憶良 について  生没年 660頃〜733頃、差73
   
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