古事記 太安万侶 元明 712

『古事記』は 日本最古の歴史書。
太安万侶(おおのやすまろ)によって43代元明天皇に献上された。 (712年・和銅5年・奈良時代)
最初に編纂命令を出したのは 40代天武天皇(在位期間=673〜686) と推察されている。

『古事記』は、上中下の3巻で構成されている。
・上巻 (神話
・中巻 (初代から十五代天皇まで
・下巻 (第十六代から三十三代天皇まで
稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた 『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承・神話も含む)を、
太安万侶が書き記し編纂したもの とされている。

・飛鳥時代 天皇の在位期間   (飛鳥時代を570年頃から710年とする)

・奈良時代 天皇の在位期間   (奈良時代は710年から794年)


天武天皇(大海人皇子・38代天智天皇の弟)の在位期間は、673〜686年、差13年。 (飛鳥時代後期)
(注) 「壬申の乱」 は 672年。
兄・天智天皇の崩御後、その息子(大友皇子・39代弘文天皇)を倒し、大海人皇子が皇位をつかんだ。

「壬申の乱」については、次のサイトの内容が簡潔で面白い。
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-nara/tenmu-sokui.htm
核心部抜粋&編集&加筆)
天武天皇の治世は、聖徳太子が始めた「法的な政治体制」 確立の最終段階。

天武天皇が行ったことは次のようなこと。
・律令と歴史書の編纂を命じる。
・八色の姓(やくさのかばね)と新しい位階を定める。
・身分に応じた服装の様式を規定。
・それまで曖昧であった各国の境の策定のための調査を行う。
・占星台を設けて天体観測をさせる。
・仏教・神道の双方を、重視・奨励して両派勢力の融合を図る。

聖徳太子の時代以降、日本では、仏教勢力がどんどん力を付けてきました。
そんな中、天武天皇は、
伊勢神宮で勝利祈願ののち、「壬申の乱」に臨み勝ったなどで、神道もかなり重視しています。
実際、「伊勢神宮の色々な祭祀や制度」は、この時代に始まったのではないかともいわれています。
天武天皇が出ていなかったら、日本は完全に仏教国になっていたかも知れません。
天武天皇は道教などの中国文化にも長けていました。
「おおきみ」や「やまと」に代わって、
「天皇」や「日本」といった漢語が使われるようになったのも、
天武天皇の時代ではないかと言われています。

律令は、「大宝律令」で一つの完成を見ました。42代文武天皇期・大宝元年(701)。
歴史書も、「古事記」と「日本書紀」で大きな完成を見ました。
「古事記」、43代元明天皇期・和銅5年(712)
「日本書紀」、44代元正天皇期・養老4年(720)。

天武天皇は約15年間政務を執られたあと686年9月9日に崩御しますが、
その遺志は41代持統天皇藤原不比等らに受け継がれ日本の政治体制は確立していきます。

&百人一首には、不比等の子孫(そこに嫁いだ女性も含む)が34人いる。
・百歌人中の 藤原族34歌人                 ・藤原北家流れ31歌人 詳細
  


原始から奈良時代の歴代天皇 初代 神武天皇〜49代 光仁天皇


飛鳥時代の天皇系図   (飛鳥時代を570年頃〜710年とする。 30代敏達天皇〜42代文武天皇)


奈良時代の天皇系図   (奈良時代は710年〜794年。 43代元明天皇〜49代光仁天皇)




●古事記  その1
古事記は、712年に献上された、
神話の世界から7世紀の33代推古天皇に至る
天皇の系譜にまつわる話。
原本は名古屋市博物館に保管されている。
奈良時代に完成し南北朝時代に書き写された。
古事記の序文に天皇の言葉が書かれている。
「これまでの歴史書の誤りを削り
 真実を選び、それを後世に伝えようと思う」。
ここで「天皇」は、40代天武天皇と推察される。
背景には古代日本の最大の内乱、
「壬申の乱」(672年)が考えられる。
天武天皇はこの乱に勝利し都を飛鳥に定め(飛鳥浄御原宮)、天皇を中心とする新たな政治を目指す。
天武天皇は、681年、律令の制定を命令。(律令 → 飛鳥浄御原令
天皇が定めた法律に豪族達が従う体制を整え、豪族達のまちまちの思惑を抑え人々をまとめようとした。
序文にある天皇の次の言葉。「聞くところに拠ると諸家の帝紀・本辞には偽りを多く加えていると言う」。


●古事記  その2
そもそも、歴史書の内容は伝承物語から始まる。
所が、伝承内容は部族ごとに違うのが当たり前。
そこで、リーダーが登場すると、
それらから取捨選択され一つにまとめられ、
さらに進み、ある意図の下に文字で残される。
歴史学者の言葉:
「歴史は文字化されることで人々の意識が変わる」。
文字化の段階で、作業命令者の意図が加わる。
そうしてリーダーを軸とした共通意識が醸成される。
古事記の場合(天武天皇)の意図:
・「天皇を中心とした律令国家を造りたい」。
・しかし、さまざまな伝承を放置していれば国家のまとまりが得られない。
・そこで、伝承を一本化し国家の在るべき秩序を構築しよう。
古事記のストーリは、「高天原から神々が下り、その子孫である天皇が国を治める」と言うもの。
では、すべての始まりの「高天原」は一体どこなのか?


●古事記  その3
古事記のストーリー的な意義は、「天の世界は無条件に支配的。天皇家はそこから始まる家系である。だから天皇に正当な支配権がある」というもの。
神話では、アマテラスは弟スサノウの乱暴に辟易し岩の穴に隠れる。すると天と地二つの世界は突如として闇に包まれ、あらゆる災いが起こる。そこで、周りの大勢の神々が協力しアマテラスを戻し平穏を回復する。 ⇒ 「協力の重要性」を暗示。
古事記ではアマテラスの「ある決断」()で、
舞台が高天原から地上へと移る。 ⇒ 「天孫降臨」
) ⇒ 孫のニギニに地上を支配するよう命じた。
このニギニを迎えたのは地上界神 猿田彦。以来、猿田彦の子孫はニギニの子孫(天皇家)と関係を保つ。
(猿田彦を奉る神社が三重県伊勢市にある。実は、猿田彦は伊勢の豪族達が信じてきた土着の神。)
11代垂仁天皇の代、天皇家ではアマテラスを奉る場所を探していた。
その時、猿田彦の子孫が自分の土地を天皇家に献上した。それが今の伊勢神宮の場所。
古事記が暗に説いているのは次のようなこと。
「神の支配の延長の天皇の支配は、人民を抑えつけた体制でなく、人民自らが望んで得た体制である」
40代天武天皇は、古事記編纂の完了を見る前に亡くなる。
そこで編纂作業は中断。その後30年経って43代元明天皇の代に再度編纂命令が出される。
・43代元明天皇  在位:707〜715、差8年。 都を藤原京から平城京に移した天皇。
  女帝。草壁皇子()の妃であった。 和同開珎を造った。 
  38代天智天皇の娘でもある。(母は蘇我姪娘。ただし41代持統天皇の母は蘇我遠智娘)。
  42代文武天皇・44代元正天皇、の母親。
  () = 40代天武天皇の息子。天武天皇の喪中(689年)に 27才で亡くなる。
        持統天皇が41代天皇となった背景の一つは、「息子 草壁皇子の早世」。


●古事記  その4
昭和54年(1979)、安万侶の遺骨が発掘される。
これにより古事記の信憑性が増す。
711年、元明天皇は太安万侶に
「中断していた古事記の編纂」を命じる。
協力者に選ばれたのが、稗田阿礼。
(天武天皇期に古事記の編纂に当たってた為)
二人の古事記編纂にまつわる一般的伝説:
記憶の超人「稗田阿礼」の語りを
太安万侶が文字記録する。
しかし古事記編纂にはそれ以上の難題があった。
と言うのは当時はまだ、
平仮名もなく、文字の読み方も定まってなかったから。
このため、当時の記憶で重要なのは、ストーリよりも文章の読み方だった。
実は、稗田阿礼の大きな任務は「誦習(しょうしゅう)」の発揮だった。
結果として、稗田阿礼が語る物語を、太安万侶が文章へ書き下す、という共同作業となった。
この時、安万侶は日本語として読みやすくするための工夫を凝らす。
例えば、「幽居」を「許母理」として「こもり」と読ませた。
つまり、なじみ薄い「書き言葉」を なじみ有る「話し言葉」とした。
話し言葉を文章に記すルールを整備し古事記をより多くの人に理解してもらえるよう努めた。
書き物は、そこに一定のルールがなければ単なる文字の羅列で文章ではなく、誰も読めない。
安万侶の一番の功績は、誰もが読める文章(多くの人に伝えられる物語)として表したことである。


●古事記  その5
古事記の大きな功績は、
文字の書き方読み方の確立でもあった。
なので、古事記は書かれている内容の真偽よりも、
文章表記(言語文化)として大きな意義を持つ。
しかし、このような古事記はのちの時代時代に、
様々な解釈が為される。
例えば、14世紀、天皇が分裂し
戦乱が日本を覆った南北朝の時代。
そして、明治時代。
「天照大神は吾が天皇陛下のご先祖様です」。
「国民がまとまった近代国家」を作る手段として
明治政府は、神話を活用した。 さらにこれが、昭和の戦時体制の確立に大きな役割を果たす。

しかし、「神話やおとぎ話」 は 決して無価値なものでも軍国的なものでもない。
人の心の奥深く、政治や権力と関係ないところにおいてまた、大きな価値を持っているものである。
想像力、自負、伝統、誇り、共同体意識、郷土愛、祖国愛、
価値感の共有(先祖が大事に守り支え続けて来たものを 自分も支え尊ぶ)、感謝、・・・。



・歴代天皇簡易一覧
http://www17.ocn.ne.jp/~cafeaule/rekidaitennnou.htm
・天皇直系系図
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/keizu_tenno0.html
・皇室の系図一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7


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八代集、 二十一代集、 について

「二十一代集」 は、 「八代集」 + 「十三代集」 。

 「八代集」
古今和歌集、  後撰和歌集、  拾遺和歌集、  後拾遺和歌集、
金葉和歌集、  詞花和歌集、  千載和歌集、  新古今和歌集


 「十三代集」
新勅撰和歌集、 続後撰和歌集、 続古今和歌集、 続拾遺和歌集、
新後撰和歌集、 玉葉和歌集、  続千載和歌集、 続後拾遺和歌集、
風雅和歌集、  新千載和歌集、 新拾遺和歌集、 新後拾遺和歌集、 新続古今和歌集


「八代集」は、平安中期〜鎌倉初期 の勅撰和歌集(国家事業和歌集)。 
「十三代集」は、鎌倉後期〜室町中期 の勅撰和歌集(国家事業和歌集)。


「八代集」の、
   第一代作「古今和歌集」は、
     60代醍醐天皇の勅命。 編者は、
     29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
   第八代作「新古今和歌集」は
     後鳥羽上皇(82代天皇)の勅命。 編者は、
     87.寂蓮(途中で没)、94.飛鳥井雅経、97.藤原定家、98.藤原家隆、
     源通具、六条有家。

「十三代集」の
   第一代作「新勅撰和歌集」は、
     86代後堀河天皇の下命を受けた97.藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も
     九条道家・教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、
     87代四条天皇期の1235年三月に完成し奏上。
   第十三代作「新続古今和歌集」は、
     室町幕府第6代将軍足利義教の執奏により、
     95代後花園天皇の勅宣を以って権中納言飛鳥井雅世が撰進。

なんと、古今和歌集とつく和歌集は4卷あるんですね。  原→親→族→親族
・古今和歌集
・新古今和歌集
・続古今和歌集
・新続古今和歌集
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天智天皇、白村江戦、近江商人

ブログ ⇒ 日本と韓国の思想−−この似て非なるもの
記事 ⇒ 激動の東アジアと日本の戦略
http://takezawa.iza.ne.jp/blog/entry/1026472/ 
が余りにも興味深いので記事文を転載させていただきます。


中国南朝の影響を受けた百済は、貴族的で優麗な仏教文化の花開いた国でした。日本との交流も盛んで、儒教や仏教が日本に伝わったのも百済からでした。その百済も、新羅と唐の連合軍に攻められて660年には焦土と化します。仏閣と市街が全て焼かれ、王は唐に拉致されました。この時、崖から王を見送った宮廷女官3,000人が次々と海に飛び込んで自殺するという悲惨な出来事が起こります。女官たちの衣服を花に擬して、その崖は落花岩と呼ばれるようになりました。

鬼室福信(キシツフクシン)という百済の王族は、山に逃れて日本の朝廷に書状をしたため、人質となっていた王子豊璋(ほうしょう)の帰国と援軍の派遣を求めます。日本はこの要請に応えて663年に5千の兵を豊璋とともに百済の地に上陸させました。陸戦に強い日本兵は新羅軍を蹴散らして、百済復活の可能性が見え始めたその時です。日本の将兵にいつも囲まれている王子を見るにつけても、鬼室福信はある疑念にとらわれます。それは、「王子豊璋を利用して日本は百済を奪い取ろうと企んでいるのではないか」ということでした。この疑念によって百済陣営は分裂し、遂に王子豊璋は鬼室福信を殺害してしまいます。この内紛に乗じて新羅は百済に再度大軍を送って、残軍を掃討しました。この時、日本が再度派遣した水軍2万余も、白村江で唐の海軍に待ち伏せされて400艘の船を焼かれ、全滅してしまいます。

辛くも生き残った百済人難民を日本は積極的に受け入れました。『日本書紀』には、665年に百済の男女400人を近江の国神崎郡に住まわせ、669年に余自進、鬼室集斯ら男女700人を近江の国蒲生郡に移住させたと書いてあります。その他、関東には百済人や高句麗人2,000人を送り込んでいます。

百済支援も亡命者受け入れも、中大兄皇子(天智天皇)の強いリーダーシップによるものでした。天智天皇は668年に即位すると、亡命してきた百済の貴族達に百済の官位をそのまま与えて大臣やブレインに登用します。百済王族であった鬼室集斯は学識頭(今の文部大臣)に任ぜられて、儒学教育に尽力して尊崇され、日野町には鬼室神社が残っています。その他、大勢の百済人が、次の天武朝にかけて、仏像、壁画から漢詩文に至る溌剌とした白鳳文化の興隆に貢献したのでした。関東に送り込まれた百済人たちは、各地で勢力を蓄え、「坂東武者」の祖となったとする説もあります。

ともあれ、新羅は唐と同盟することによって百済の次に高句麗をも滅ぼしたのですが、新羅と唐の同盟は同床異夢でした。「高句麗の地は漢の四郡の置かれた時代から元々中国のものである」と唐は主張しはじめ、旧高句麗や旧百済の地に唐の役所を設置したり、反新羅の勢力を支援したりの内政干渉を始めます。これに対抗して新羅は、民族の危機を訴えて高句麗や百済の遺臣を味方につけると同時に、日本に応援を要請してきました。一方、新羅の抵抗に手を焼いた唐も頻繁に日本に使いを送り、唐と日本が同盟して新羅を挟み撃ちにしようと持ち掛けます。

日本書紀にも新羅と唐の使節が頻繁に来日したことが書かれています。反目する両国から色目を使われた日本ですが、天智天皇は「憎い新羅を討つために唐と連合しよう」と考え、大海人皇子(後の天武天皇)は「新羅を応援しよう」と考えたようです。天武は「もし日本が唐と結んで新羅を滅ぼしても半島を唐と折半できる筈がない。次に唐が狙うのは日本である」と見透かしたのではないでしょうか。唐に裏切られた新羅の使いの嘆き声を「明日はわが身」と感じもしたことでしょう。

東アジアの動乱に巻き込まれようとする日本の戦略的な決断が迫られた時であったといっても良いでしょう。各地の豪族の意見も天智側と天武側に二分されて壬申の乱(672年)となり、天武天皇が即位することとなりました。この直後から約30年間は遣唐使の派遣が中断し、その代わりに遣新羅使が9回も派遣されているのですが、上に述べたような事情を物語っているのではないでしょうか。

新羅は唐を半島から追い返し、独自の文化を築きます。

『 仏教へのいざない 』
http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/27.html より  仏教伝来 時系列図



本ブログの別記事 『 藤原不比等は天智天皇の落種(おとしだね・落胤 らくいん) 』
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/152497308.html より  
日本の「都(みやこ、京・宮)」 の変遷



白村江の戦い



NHK番組 第4回 そして日本が生まれた 4/8 〜白村江の敗戦から律令国家へ〜
6分頃から 「 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ 」 の逸話あり。
逸話のアト、中大兄皇子が、豊璋(ほうしょう)に織冠を授けるシーンが出てきます。
こういうシーンは、小中華思想の反日嫌日侮日で凝り固まっている、韓国の人々からすると、
「デタラメだ・作り話だ」と言うんでしょうね。でも、そう言われて、「絶対にデタラメでは
ない!」 とも言い切れないのが歴史資料というものだ、と認識しておく方が健全でしょう。
そのうえで・・・、彼我の現在の国状や国民性の違いを静かに鑑みて、どうやらあちらがデタ
ラメを教えられていて、日本側に真実に近い資料が残っているのだろうと、秘かに思い続ける
と言うのが、紳士的(日本人的)と言えると私は判断してます。
  
 遣隋使は推古期のみ。遣唐使は舒明期から。
   随(581〜618) 約40年間
   唐(618〜907) 約300年間
   690〜705の間は唐王朝ではなかった。
 1/8 2/8 3/8 4/8 5/8 6/8 7/8 8/8


「織冠」というのを少し詳しく知ろうとwikipediaを見ると
「大織冠」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B9%94%E5%86%A0 が出てくる。
そしてなんと大織冠を与えられたのは、
藤原定家の大先祖(16代上)の中臣鎌足(死後、藤原鎌足)のみという。
そこで、次のような面白い記事にも出会うことになってしまう。
『 中臣鎌足 = 豊璋 、 ほうしょう は かまたり ではないのか? 』 説
実は私も、なぜ中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の斉明天皇を伴ってまで、
一時的とはいえ、都を朝倉(福岡県)に移してまで、
百済救済(古代の歴史を時系列に眺められる現代人の私にすれば、突然の海外遠征)に臨んだのか
興味津々なのです。それが、このブログを最近、百人一首ブログなのに、なんとなく日中朝の歴史ブログのように転化させてしまっているのです。

ただし、「白村江の戦い」 は、古代日本の、初の海外遠征ではないようです。
600年代初頭、推古天皇期(摂政=厩戸皇子=聖徳太子)のころに遠征してた模様。
(朝鮮の広開土王の碑文に書かれているらしい)
wikipedia 『 日本の軍事史 』 の古代 によると・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2#.E5.8F.A4.E4.BB.A3
4世紀末までに大和政権は奈良に拠点を持ち、7世紀初めには憲法十七条の制定などに見られるように国家としての体制を整備していた。この頃には日本は海外遠征を実施するだけの軍事力を準備し、実際に朝鮮半島において日本の軍勢が戦っている(広開土王碑)。しかし663年に日本は中国と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、この敗北により日本は防衛体制を見直し、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の着上陸に備えていた。
広開土王碑
http://tahyuka.hp.infoseek.co.jp/reki-4koukai.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91

「朱蒙(チュモン)」から見た日本古代史 第2部
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum13
人物 朱蒙 ⇒ 高句麗初代王とされる人物
番組 朱蒙 ⇒ 韓国MBCで三国史記と百済本紀の分注の別伝に記された神話伝承を元に朱蒙を主人公とし製作された韓国の歴史ファンタジードラマ
7世紀半ば、どういうわけか日本に百済の王子が滞在していた。百済国第31代にして最後の王である義慈王の子供の一人である。その名を扶余豊璋(ふよほうしょう)と言う。日本の歴史を学んでも小中高の教科書、参考書程度ではまず名前を見ることの無い人物だが、日本書紀に詳しい記述がある。ちなみに扶余とはもちろんプヨのことである。

彼は日本と百済の同盟関係を担保する人質として日本に滞在していたようで、言ってみれば漢の長安に放り出されたヨンポ王子みたいなものだが、実際には賓客扱いで決して悪い待遇ではなかったらしい。

7世紀半ばといえば、日本では大化の改新(645年 乙巳の変)が起こり国中が揺れ動いていた時代である。中大兄皇子と中臣鎌足が組んで、それまで政治を牛耳っていた蘇我一族を滅ぼしたというのが事件の概要であるが、この中臣鎌足こそ実は豊璋その人ではなかったかというユニークな説を語る人がいる。(歴史作家 関裕二氏)

乙巳の変以前、蘇我氏が権力をふるっていた時代には、日本は高句麗・百済・新羅の三国いずれとも等しく国交を維持する、つまり中立の立場を取るという外交的に極めて真っ当な政策を取っていた。ところが、中大兄皇子が権力を手中にしてからはあからさまに百済よりの政策を取り始めるのだ。

朝鮮半島の情勢を見ればその後唐と同盟を結んだ新羅が660年に百済を、668年には高句麗を滅ぼしたのであって、少しでも時勢を見られたのであれば新羅と手を組むか、あるいは半島には全く関知しないというのがあるべき姿だろう。

しかし、中大兄皇子は百済滅亡後、日本国内に滞在していた豊璋を本国に返すだけでなく、都を筑紫に移してまで百済復興の戦いに撃って出るという信じられないような政策を取っている(結果は惨敗)。どうしてそこまで百済に肩入れする必要があったのだろうか。

そして、日本書紀の記述を読むと、豊璋が本国へ帰っていた時期、中大兄皇子の片腕だったはずの鎌足の行動がまったくわからないのに、豊璋が行方不明になった途端に再び活動を始めるという不思議。さらに、当時の位を示す冠位のうち最高位の「織冠」を与えられたのは鎌足と豊璋のただ二人だけという事実。(奈良の広陵町にある百済寺には鎌足が祀られている)
これらを総合すると中臣鎌足=豊璋という説も無い話ではないように思えてくる。


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昭和天皇・マッカーサ 会見秘話






以下は、青山繁晴氏が語る 「日本の天皇・天皇制」 への一見解。
青山氏の語る、16代仁徳天皇の「民のかまど」逸話と、
本記事冒頭の昭和天皇・マッカーサ会見秘話とで、重なるものを感じたので興味深かった。

語り手: 青山繁晴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E7%B9%81%E6%99%B4
聞き手: 川崎さちえ
ヤフーオークション家、株式投資家、主婦、作家 、トレーダー。

■青山繁晴氏が語る 天皇制  その1/2


■青山繁晴氏が語る 天皇制  その2/2


青山氏の言う、 16代天皇 仁徳天皇の歌 「民のかまど」 については、次のサイトが面白い。
・新古今和歌集の部屋
http://home.cilas.net/~jikan314/index.html の
・新古今和歌集の検索
http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu/kensaku.htm の
・卷第七 賀歌 (がのうた)
http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu/kanbetu/07.html の
・707 仁コ天皇御歌
http://home.cilas.net/~jikan314/shinkokinwakashu/kanbetu/07/0707.html
高き屋に のぼりて見れば 煙たつ  民のかまどは にぎはひにけり

仁徳天皇
16代天皇。在位期間は、313〜399年。なんと、86年間。
仁徳天皇の没年齢はwikipediaによると142才です。
当然、142才という没年齢は、現代人の私にすれば、とてもとても馬鹿馬鹿しい値です。
ですから、在位期間も86年間!と笑ってしまうような値です。
ひょっとして当時は、「長寿を誇示することが、より神聖さを醸し出す」 と思っていたのかも知れません。
なので私は、このあたりの天皇の系譜情報はあいまいだと断定してます。
ちなみに、初代神武天皇は、在位期間が75年間(紀元前!660〜585年)。没年齢が126才!
ただし、だからといって私が、日本の天皇の歴史や価値を否定している、わけではありません。
「紀元前」か「紀元後」かなんて、現代人にしてみれば多少のこだわりを持ちますが、
天皇家の系譜を整理した頃の人々にとっては、そんなもの、頭の片隅にもない「無意味な基準」ですし。
私は、「歴史を感情で判断してはならない」 と考えてますので。
事実(情報)は事実(情報)として、平常心で認識すべきです。
仮に、仁徳天皇の在位期間や寿命を絶対真実だと言い張る現代人がいるなら
「太古の昔、日本の君主のひとりが142才まで生きていた」と思えるその人の頭脳構造を
逆に私は疑ってしまいますし、強烈に軽蔑してしまいます。「アンタはアホか?」と。
ただし、「当時は6ヶ月を1年としていた」という説を唱える人もいます。
ですが私は、余り見苦しい詭弁を弄するよりは、素直に曖昧さを認めた上で、
価値自体は疑わないという姿勢のほうが可愛いと思うのだけれど・・・。
参考 ⇒ 「日本最古の文書」群は、おおむね奈良時代(700年代)のもの。
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/149953277.html


この歌の背景となる逸話:
仁徳天皇が難波高津宮から一帯を眺めた時のことです。

「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。
 都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」 と述べられ
「向こう三年、税をとらない」 と発令しました。

それ以降、天皇は 衣を新調されず、
宮垣が崩れ、茅葦屋根(かやぶきやね)が破れても修理もせず、
星の光が、破れた隙間から見えても堪え忍びました。
そして三年後。
天皇が高台に立ち、炊煙が盛んに立つのを見て、横の皇后に言いました。

「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、
 どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞け。政事(まつりごと)は民(たみ)を本筋としなければならない。
 その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ほほえみながら、そう言いました。

そのころ、諸国より
「宮殿は破れているのに、民は富み、道にものを置き忘れても拾っていく者もありません。
 もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、かえって天罰を蒙ります」
との申し出が多く出るようになりました。

それでも、天皇は引き続きさらに三年間、税をとりませんでした。
そして、六年後、税を課し、宮殿の修理をしました。
その時の民の有様を「日本書紀」は次のように伝えている。

「民、うながされずして材を運び、簣(こ)を負い、
 日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。
 いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。
 故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。
 みかど崩御ののちは、 和泉国の百舌鳥野(もずの)の
 陵(みささぎ)に 葬(そう or はふり) し 奉る」

簣(こ)
「もっこ」とも言うらしい。おそらく、土砂などを運ぶためのムシロみたいなものでしょう。籠(かご)は古式タクシーだけれど、籠の代わりにヒモでムシロ状のものを棒にぶら下げ、前後二人が棒を肩に背負い、ムシロ状の所に載せた土砂を運ぶ。そんな感じの古式運搬用具のことでしょう。

百舌鳥(もず):
ほとんど、雀(スズメ)。
全長19-20センチメートル。
雀よりは一回りほど大きい?
大阪府の府鳥。
もず をなぜ 百舌鳥 と書くのかの答え:
「も」は、「多いこと」を示す「百(もも)」からの「も」。
「ず」は、「カラス」「スズメ」など、鳥一般を示す 接尾語。
いつも多くで ⇒ 「百」、 「キイーキイー」鳴いてる ⇒ 「舌」、 「鳥」 だからでしょう。
詳しくはコチラ ⇒ モズの言語由来 http://gogen-allguide.com/mo/mozu.html

百舌鳥古墳群:
 大阪府堺市にある古墳の集まり。巨大な前方後円墳を擁する古墳群。4世紀末ないし5世紀初頭から6世紀後半頃に築造された古墳が分布する。
 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、ミサンザイ古墳など、墳丘長200m以上の大型の前方後円墳3基を含む。かつて100基以上の古墳があったとされるが、第二次大戦後に宅地開発が急速に進んだため、約半数近くの古墳が破壊され、現存するのはわずか50基に満たない。


たとえ、詠み人知らずの歌を 16代 仁徳天皇の歌とした、としても
また、上の逸話が創作(作り話)であるとしても、
そう言う発想が生まれる背景・土壌・民族性、
この歌の響きが「さもありなんと多くの人に支持される」ような君主と民衆の関係性、
が面白い(ユニーク・日本的)と、青山氏は言っているのでしょう。


「新古今和歌集」は 「八代集」の 最終和歌集。
後鳥羽上皇(82代天皇)の勅命で 編纂された。 編者は、
87.寂蓮(途中で没)、94.飛鳥井雅経、97.藤原定家、98.藤原家隆、源通具、六条有家。

本ブログ中の関連記事:
・「日本最古の文書群は、おおむね奈良時代(700年代)のもの」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/149953277.html 
・「八代集、 二十一代集、 について」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/154603184.html



「民のかまど」 で私が連想したのは、 45代 聖武天皇の 「奈良の大仏」 。
聖武天皇は、仏教により国家の安定を願い、(=鎮護国家)
それのシンボルとして大仏造営を手がけた。
勿論、権力者のこの種の行為は示威行為と表裏一体ではあるのだけれど・・・。

聖武天皇の皇后は、「鎌足の息子、藤原不比等」の娘、光明子。
藤原不比等は、藤原定家の15代上。
・「定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/108517927.html
・「藤原不比等は 天智天皇の 落種」
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/152497308.html

歴代天皇 簡易 一覧

 
 
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「日本最古の文書」群は、おおむね奈良時代(700年代)のもの。


「日本最古の文書」と言われている文書群が書き留められた時期は、西暦で言うと700年代。おおむね奈良時代です。きっとこの時期に、「国の生い立ち」、「君主の明示と価値付け」、「国のたしなみ」、などの文書化をしなければいけない、あるいはしておきたいという気運に、「日本という国」が思いいたったのでしょう。

『日本』という国号は、遣唐使の時期頃から使われ始めたようです。
『天皇』という呼称は、40代天武天皇期頃から使われ始めたようです。
朝鮮半島での戦い(白村江の戦い)に敗れたのは663年。
この戦いの日本側トップは中大兄皇子(敗戦帰国後、即位⇒38代天智天皇)。
この二つ、『日本』・『天皇』 の例は共に飛鳥時代(600年代)です。

このような時代の流れの中で、「日本最古の文書」群がほぼ歴史的必然として奈良時代に編纂されたのでしょう。日本という国にとってこの時期がそういう時期だったのだと思われます。「国」をひとりの人間とイメージしたとき、人が必然的に迎える時期、授乳期・離乳期・学童期・思春期・成人期があるように、「国」にもあるものでしょう。国の場合はそう言った時期を「歴史的必然性」と言えるのだと思います。。。

「日本最古の文書」と言われてる文書群と、編纂担当者であるなどその文書を代表する人物。
・「古事記」 太安万侶(おおのやすまろ)
・「日本書紀」 舎人親王(とねりしんのう)
・「天皇家の系譜」 淡海三船(おうみのみふね)
・「万葉集」 大伴家持(百人一首6番歌歌人)
代表する人物はすべて奈良時代の人です。


ここで、歴代天皇情報の内容についてお話します。

まず、現天皇の呼称は 今上天皇(きんじょうてんのう)です。
平成天皇と呼ぶのは「お亡くなりになってから」です。
今上天皇は第125代天皇です。 初代天皇は神武天皇です。
神武天皇は、在位期間が、紀元前660〜585年、 生没年が、紀元前711〜585年。

やはり、神武天皇に関してはわたし、驚くと同時に笑ってしまいます。
まず、驚かないほうがおかしいです。
在位期間75年間 ← これはまだ我慢しましょう。
没年齢126才 ← ちょっとこれは・・・、わたしには・・・、がっ、がっ、我慢できませぇ〜ん。
ただしこれは、古代において「半年を1年に数えていたため」との説もあります。

いずれにしましても、
「125代ってどんな天皇さんがいるの?」って思った方はコチラ ⇒ 歴代天皇簡易一覧

なぜ笑ってしまうかと言うと、この方、アマテラスオオミカミ、スサノオノミコト、ヤマタノオロチ(「キングギドラ」のご先祖)、・・・さんらとリンクしてきます。つまり、「イザナギとイザナミが棒で海をかき回し その棒を海から上げたとき、棒の先から垂れたしずくで淡路島が出来た」 と言う「日本神話」とリンクしてきますので。

この当時、日本に文字はあったのか? という疑問も沸きます。勿論、文字による記録でないから価値がないと言うわけではありません。伝承にもそれなりの価値はあるでしょう。また、縄文人の絵画能力や、渡来人の先進文化と相まった日本固有の絵文字など確認されてるようですし、志賀島の「漢委奴國王」の金印(紀元後57年) から漢字は弥生時代中期に日本へ伝わってたとされます。ただ、漢字に関して当時の人々はまだ使いこなすまでには至ってなかったようです。



神武天皇にまつわるお話をもう少し・・・。
大正時代の歴史学者津田左右吉が次のように訴えたようです。
神武天皇は歴史上の何かの事実を反映したものではない。”皇室が日本を支配するいわれ” それを説明するためのフィクションである。つまり日本神話の一部だ」。
昭和になって先の大戦前、津田左右吉の著書は不敬として発禁処分されます。しかし戦後、皇室のタブーが解かれると、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして津田左右吉の説が支持されるようになりました。
現代の歴史学界では、神武天皇の存在は前提とされてません。神武天皇は、10代崇神天皇、15代応神天皇、26代継体天皇、古事記日本書紀編纂時期の 40代天武天皇、などを念頭に、弥生時代末期から古墳時代にかけての出来事を基にして創作された天皇、とされてるようです。

しかしもう、歴代天皇の諸々の資料で「初代神武天皇」として広がってるので、黙認(知っている人だけ知ってればよい)という事ではないかと思います。太古の昔から十分100代前後続いていることは間違いないのでしょうから。なんと言っても戦後初の好景気を、神武天皇が初代天皇であるからと「神武景気」と名付けた事実もありますし・・・。

歴代天皇データを作る際、真剣な方が原本としているのは宮内庁の資料でしょう。私はwikipedia情報です(勿論、wikipedia内容は熱心な方が宮内庁資料を基に書いたモノなんだろう、と私は思ってますが・・・)。 ただ、以上のような背景・事情もあるのでしょうか、一般に見受ける文章には天皇の名前に代数をつける表現は少ないです。ですが私は、おおまかな時期や前後関係が分かりますので、しばしば代数と共に天皇名を表しています。その時には神武天皇を初代とした広く流布している代数を用いてます。



と言う事でさっそく・・・。日本最大古墳として「仁徳天皇陵」が大阪府堺市堺区大仙町にあります。最近は諸事情で、この古墳を「「大仙陵古墳」と呼ぶようです。この、仁徳天皇は16代天皇です。そして、仁徳さんの在位期間は86年間&没齢142才! 日本の長寿は今に始まったことではなさそうです。 ←冗談デス。<(_ _)>  つまり「このあたりの天皇さんに関しては曖昧な点が多い」と割り切って、深く追求しない。一休さんのように・・・「気にしな〜い。気にしな〜い」。(笑)
気になる方はコチラ(wikipedia)をご覧になってみて下さい ⇒ 初期天皇の実在性

ともあれ、奈良時代に、国の体裁を誇示する必要性から自国の国王の歴史&価値を明示しておきたく成ったのでしょう。当時の先進国である大陸の大国とのつきあい上の必要性もあったのかも知れません。どなかたかの指示でしょうが、淡海三船(おうみのみふね=38代天智天皇の 孫の孫)らが、自国の国王の歴史であるとして資料を作ったのが始まりのようです。そういう背景を念頭に置いておく必要はあると思いますが・・・ ⇒ 歴代天皇簡易一覧

20代ほどマデの神話チックな要素はむしろ、淡海三船らを始め、これらのことに関わったすべての人達の、涙ぐましいながらも何か笑いを禁じ得ない、「必死さと情熱」だと、私は・・・、好意的に解釈してま〜す。



(付録)
天皇家を馬鹿にしてはいけない!直系系図はこうだ! 
という資料はコチラ ⇒ 天皇家直系系図
伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、
天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)
もキッチリ書かれている! このサイトは他の氏や族の系図も詳しい。「トップへ戻る」など貴重。

月読命(ツクヨミノミコト)は、ギリシア神話の「月の女神」アルテミスとダブりますね。
人の考えることは、洋の東西を問わず同じと言う事でしょうか・・・。
どなたかの、こじんまりと素敵なページです。 ⇒ 『月の神様』
(注) アルテミス、セレネ、ディアナ、ダイアナ、ルナ。
呼び方が複数あるのは時期や地域による違い。
ギリシア神話に登場する狩猟・純潔の女神。のちに月の女神ともなった。

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