歌人と時代背景6 鎌倉前期

鎌倉時代前期(1192年〜1240年頃)の歌は、93.鎌倉右大臣 〜 100.順徳院 の 8首。

      

93 世の中は常にもがもな渚こく あまの小舟の綱手かなしも       鎌倉右大臣
94 み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり        参議雅経
95 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみぞめの袖   前大僧正慈円
96 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり    入道前太政大臣
97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ    権中納言定家
98 風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける     従二位家隆
99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は     後鳥羽院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院



鎌倉時代を概観してみます。鎌倉時代は年代では、1192年〜1333年。
この期間の天皇はおおむね、82代後鳥羽天皇〜96代後醍醐天皇です。

●鎌倉時代の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(鎌倉時代。1192年頃〜1333年)   
「治承寿永の乱」、そして「奥州合戦」などを経て、鎌倉幕府が成立する。
頼朝没後、義父・北条時政が初代執権となり、頼家・実朝は謀殺・暗殺される。
源氏将軍の断絶を契機に、後鳥羽上皇(82代)が朝廷の権威挽回のため討幕に走るが、敗北。
幕府は武家の法令「御成敗式目」を制定。 それまでの公家目線の「律令」を改変。
後期に、二度にわたり元が攻め入る。( 元寇 ・ 文永の役(1274)、弘安の役(1281) )
元寇で乱れ弱った幕府を見て、96代後醍醐天皇が倒幕を企てる。
結果として、足利尊氏が  室町初代将軍となり、朝廷は60年余り南北に別れる。
以降、朝廷は事実上、政治の実権力から遠ざかる。


●天皇とその周辺
この時期は武家に政治の実権が移った節目の時代です。
日本史の大区分も鎌倉時代には、平安時代までの「古代」から、「中世」に変わります。
平家の滅亡を告げる悲運の幼少天皇・81代安徳天皇に代わって登場するのが82代後鳥羽天皇。
調べてみると、82代後鳥羽天皇は、
81代安徳天皇が壇ノ浦に沈む2年前、わずか3才で即位させられています。
天皇というのは時代をかき混ぜても居ますし、時代にかき混ぜられてもいる存在ですね。
この82代後鳥羽天皇がまた、鎌倉幕府と対峙することになりますから。
この対峙「承久の乱」の結果として、
82代後鳥羽さんは隠岐の島(島根県)に、
82代後鳥羽さんの息子 84代順徳さんは佐渡が島(新潟県)に配流されます。
このお二人が百人一首を締めくくるお二人です。

82代後鳥羽さんは二人の息子が天皇です。84代順徳天皇と83代土御門天皇です。
83代土御門さんは父達の反幕府行動には関与してなかったので処罰されませんでした。
しかし、83代土御門さんは「父が隠岐に流されているのに自分が京にいるのは忍びない」と
自ら申し出て土佐(高知県)に流されました。


●定家と後鳥羽院の確執
後鳥羽さんは定家をもり立ててくれた恩人であると同時に、
互いに歌に関して一家言を持っている激情家のため、定家と対立もあった人物。
定家の生い立ちと後鳥羽天皇
平安前期の菅原道真の怨霊話にからみ 後鳥羽さんと定家の確執が爆発
 ( 以下に、上のサイトの「 定家明月記私抄 続編 」部の一部を転載させていただきます。 )

後鳥羽上皇・藤原良房・定家の時代となり、
新古今和歌集の撰歌を終えた頃から、後鳥羽上皇は関心が政治や遊興に移り、
何かと定家の気に食わない存在となっていった。

(二人の生没年)
藤原定家 : 1162〜1241、差79。 (定家が18の時後鳥羽さん産まれる)
後鳥羽さん: 1180〜1239、差59。


1213年。
後鳥羽上皇が検非違使別当(警察庁長官)を遣わして、
定家の庭の柳二本を抜き去るという事件があった。
定家は、宝剣無くして立った帝であるから末世的な状況になったと捨て台詞を残す。

1220年。
順徳天皇による内裏での歌会で次の歌を歌った。
道のべの 野原の柳 したもえぬ  あはれ嘆きの 煙くらべに

これを見た後鳥羽上皇が激怒した。
「道のべの朽木の柳春来ればあはれ昔としのばれぞする」は菅原道真。
「立ち添いて消えやしなまし憂きことを思い乱るる煙くらべに」は源氏柏木。
「定家は己を道真に喩えて柳の恨言を言っている」と。
これで定家は人生二度目の処分を受けた。
勅命で勘当されて閉門になった(勅勘)。
実は、この後鳥羽上皇と決別が、転じて福となる。

あとで後鳥羽上皇は、定家を評して、天分は優れているが正体のない歌とした。人と和するためには、和することのできる「景気」、景色・配置・詩的雰囲気が必要であり、最小限でも「ことはり」、筋道・道理・詩的論理が必要である。定家の歌は、景気もことはりもないと言うのである。後鳥羽上皇は、歌はあくまで宮廷の社交上の儀礼の範囲であったが、定家の歌は宮廷から独立しうる美的完結性を目指したものであった。・・・



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
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百首は日本の歴史のどの範囲?

・百人一首 百歌人の生没年分布一覧  (画面クリックで正規サイズ画面表示されます)

・飛鳥時代 03人 ⇒ 1.天智天皇、 2.持統天皇、 3.柿本人麻呂
・奈良時代 04人 ⇒ 4.山部赤人、 5.猿丸太夫、 6.大伴家持、  7.阿倍仲麻呂
・平安前期 32人 ⇒ 08番 喜撰法師〜39番 参議等
・平安中期 29人 ⇒ 40番 平兼盛〜65番 相模 & 68番 三条院〜70番 良暹法師
・平安後期 24人 ⇒ 66番 大僧正行尊、67番 周防内侍 & 71大納言経信 〜92番 二条院讃岐
・鎌倉前期 08人 ⇒ 93番 鎌倉右大臣〜100番 順徳院  

小倉百人一首の百首の歌番号は、
1番 天智天皇(626〜671、差45)から 100番 順徳院(1197〜1242、差45)まで、
約600年間の歌人の歌が、おおむね歌人の年代順に付番されています。


なぜ天智天皇の歌が1番なのか?
自分への この問いにふと、こうではないかと思ったことがあります。
それの伏線が、
「百人一首の百人の歌人は 日本の歴史の上で どの範囲の人々なのか調べてみよう」
と思ったことでした。
それで、上のような 百人一首 百歌人の 生没年一覧分布図 を作りました。

次に、日本の歴史全体はどういう流れになっているのだろうと、
区分表を作成し、西暦の紀元から現在までを人の身長に当てはめてみました。
  

百人一首の歌人の生きた時代は、
2.古代の「飛鳥時代」 (飛鳥時代の660年ころ) 〜
  同じく 「奈良時代」
  同じく 「平安時代」、そして
3.中世の「鎌倉時代」 (鎌倉時代の1240年ころまで) 。

飛鳥、奈良、平安、鎌倉、
と四つの時代に渡っています。
上下逆になりますが、上右図のイメージからすると百人一首の百歌人の時期は
モモの中程辺りからおなかの辺りです。


1番歌の 38代 天智天皇 の在位期間は 661〜671、10年間。 
(天智天皇は在位中に没[崩御])
百人一首の編者 藤原定家 の生没年は 1162〜1241、差79年 です。
&、
飛鳥時代の始まりは 6世紀末(580〜590 頃?)、
鎌倉時代の終わりは 1333年。


1番が38代天皇の天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

100番が84代天皇の順徳院(順徳天皇)
ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり

先頭と最後はそれぞれ天皇の歌 (★) ですが、
百人の歌人がまたがる4時代を、代表的な歌人で覚えると
私の場合次のようになります。

飛鳥時代 ⇒ 持統天皇 〜衣ほすてふ天の香具山  (香具山はいかにも飛鳥を彷彿とさせます)
奈良時代 ⇒ 阿倍仲麻呂(遣唐使) 天の原ふりさけ見れば〜  (奈良時代は遣唐使の時代でした)
平安時代 ⇒ 紫式部 めぐりあひて〜 女流文学の原点的物語『源氏物語』(1008年)紫式部著。
鎌倉時代 ⇒ 鎌倉右大臣 世の中は〜 (源頼朝[=鎌倉武将の元祖的人物] の三男)


(★) 補足 
@第1首&第2首は、天皇親子。
A第99首&第100首も、天皇親子。

@は、父親 38代 天智天皇、娘 41代 持統天皇
Aは、父親 82代 後鳥羽天皇、息子 84代 順徳天皇


天香具山 (最寄りJR駅 奈良県 桜井線 香久山駅 by Googlemap)
奈良県橿原市にある丘陵。
畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)とともに大和三山と呼ばれる。



この記事 冒頭の 「なぜ天智天皇の歌が1番なのか?」
この自問への私なりの答は、次の記事に書きました。
1番歌は聖徳太子でも良かったんじゃない?



百人一首の期間(飛鳥時代〜鎌倉時代、600年代後半〜1200年代前半)を
NHK高校講座日本史の第4〜11回で概観してみると、面白いです。

この講座の中でも百人一首の歌人のことなど、けっこう登場します。
歴史とダブらせて百人一首の歌人をイメージするのに、そして
百人一首の期間を歴史を背景にイメージするのに、役立ちました。

2009年NHK高校講座日本史 (飛鳥、奈良、平安、鎌倉。600年代後半〜1200年代前半)
 回 放送日  時代  タイトル
  4  5/12  飛鳥時代 東アジア世界の動乱と古代日本
  5  5/19  奈良時代 奈良時代の都と地方
  6  5/26  平安前期 平安京の時代
  7  6/02  平安中期 摂関政治の展開と藤原氏
  8  6/09  平安中期 武士の登場
  9  6/16  平安後期 院政
 10  6/23  平安後期 鎌倉幕府の成立
 11  6/30  鎌倉前期 承久の乱と執権政治
 12  7/07  鎌倉後期 モンゴル襲来
 13  7/14  室町時代 南北朝の内乱


(参考) 
■ 歴代天皇簡易一覧 (初代 神武天皇 から 125代 今上天皇 まで)
■ wikipedia の 日本史の出来事一覧
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百人一首歌人 生没年 分布図

小倉百人一首の 歌人百人 生没年分布図 を描いてみました。

■歌人の生没年分布図   画像クリックで標準サイズで表示されます。

始まりの、01番&02番が天皇親子(天智天皇&持統天皇[女性])。
終わりの、99番&100番も天皇親子(後鳥羽天皇&順徳天皇)。
途中にも、4人の天皇(13陽成天皇、15光孝天皇、68三条天皇、77崇徳天皇)がいます。
この8人の天皇のほかに、20番元良親王&89番式子内親王、2皇族がいます。
これら10人の歌人は、分布図の左別枠にも配置しました。

また全歌人を、時代区分を意識して、歌番号順に左から右へ配置しました。
生没年棒線が重なってしまうなどを考慮して、以降を右へシフトさせている場合があります。
平安中期の人として先頭歌人とした40番平兼盛は、
6人分右シフトして、平安前期の歌人 13番陽成院 の右斜め下に配置しました。


生没年図を描いて&観て、歌人の時代区分として、おおまかに次のことがうかがえました。
・飛鳥時代 03人 ⇒ 01.天智天皇〜03.柿本人麻呂
・奈良時代 04人 ⇒ 04.山部赤人〜07.安倍仲麿
・平安前期 32人 ⇒ 08.喜撰法師〜39.参議等
・平安中期 29人 ⇒ 40.平兼盛〜65.相模 & 68.三条院〜70.良暹法師
・平安後期 24人 ⇒ 66.大僧正行尊、67.周防内侍 & 71.大納言経信 〜92.二条院讃岐
・鎌倉前期 08人 ⇒ 93.鎌倉右大臣〜100.順徳院  

小倉百人一首の百首の歌番号は、
1番 天智天皇(626〜671)から 100番 順徳院(1197〜1242)まで、
約600年間の歌人の歌が、おおむね歌人の年代順に付番されています。
この600年間は、飛鳥時代後期〜鎌倉時代前期 にあたります。


百人一首の期間(飛鳥時代〜鎌倉時代、600年代後半〜1200年代前半)を
NHK高校講座日本史の第4〜11回で概観してみると、面白いです。

この講座の中でも百人一首の歌人のことなど、けっこう登場します。
歴史とダブらせて百人一首の歌人をイメージするのに、
百人一首の期間を歴史を背景にイメージするのに、役立ちました。

2009年NHK高校講座日本史 (飛鳥、奈良、平安、鎌倉。600年代後半〜1200年代前半)
 回  月日  タイトル
  4  5/12 東アジア世界の動乱と古代日本
  5  5/19 奈良時代の都と地方
  6  5/26 平安京の時代
  7  6/02 摂関政治の展開と藤原氏
  8  6/09 武士の登場
  9  6/16 院政
 10  6/23 鎌倉幕府の成立
 11  6/30 承久の乱と執権政治 

(参考) 歴代天皇簡易一覧



    
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院政をしいた 白河、鳥羽、後白河、後鳥羽 の4上皇

記事タイトル関連歌ベスト3
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ     崇徳院
99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は     後鳥羽院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院


百人一首歌人 生没年分布図


院政は先代天皇が、
後代天皇の代に「後代天皇の父や祖父など」であるという立場を活かし
大きな影響力を持った上皇として まつりごとに強く関わる体制。
上皇院政は、
平安時代後期(=目安:1060〜1200年)の政治に大きな影響を及ぼし、鎌倉時代でも行われた。

72代天皇(白河天皇)が、息子73代堀河天皇の代に 上皇(白河上皇)として、専制的な政治をした。
この事例が、院政の第一事例。
平安時代後期の始まりごろ、1086年に始まる。
・72代 白河天皇 (生没年=1053〜1129、差76。 在位=1073〜1086、数えで 21才〜34才 の 13年間)
・73代 堀河天皇 (生没年=1079〜1107、差28。 在位=1086〜1107、数えで  8才〜29才 の 21年間)
・74代 鳥羽天皇 (生没年=1103〜1156、差53。 在位=1107〜1123、数えで  5才〜21才 の 16年間)
・75代 崇徳天皇 (生没年=1119〜1164、差45。 在位=1123〜1141、数えで  5才〜23才 の 18年間)
堀河天皇は、
1086年(応徳3年)11月26日、立太子と同日に8才で父白河天皇から譲位され即位。
この短期間での立太子・即位は、
輔仁親王(白河天皇の異母弟) に皇統が移ることを避ける ための
白河天皇の強い意向 によるものであったとされる。 Ref→下の天皇系統図(71〜88代)
ただ 堀河天皇は、帝位にあるまま 父白河上皇よりも早く 29才で亡くなる。
一方
白河上皇は、堀河天皇崩御後22年間存命。
結果
皇位は、
白河天皇の 子(堀河)・孫(鳥羽)・ひ孫(崇徳、近衛、後鳥羽) と継がれていく。
このうち 孫の鳥羽天皇が 祖父にならうように再び院政をしく。
その院政が、「ひ孫の75代崇徳天皇(=77番歌歌人)」退位後、同じく「ひ孫の77代後白河天皇」と
あとめ争いを起こさせたとも言える。( 保元の乱 [1156年]歴代天皇簡易一覧

院政は、政治の実権が「朝廷・公家」サイドから「武家」サイドに大きくシフトされ終わるまで、
白河・鳥羽・後白河・後鳥羽、の4上皇によって行なわれる。
下の画像は、平安時代後期〜鎌倉時代前期 天皇系統図  (71代 後三条天皇〜88代 後嵯峨天皇)

71後三条→72白河→73堀河→74鳥羽→75崇徳
             皇嘉門 77後白河→78二条→79六条
                 76近衛  以仁王→北陸宮
                      80高倉→81安徳
                      慇富門 守貞親王→86後堀河→87四条
                          82後鳥羽→83土御門→88後嵯峨
                               84順徳 →85仲恭


白河天皇は、 72代天皇。 自身の天皇在位期間は、1072〜1086、16年間。
鳥羽天皇は、 74代天皇。 自身の天皇在位期間は、1107〜1123、16年間。
後白河天皇は、77代天皇。 自身の天皇在位期間は、1155〜1158、 3年間。
後鳥羽天皇は、82代天皇。 自身の天皇在位期間は、1183〜1198、15年間。


この4天皇の内、後鳥羽天皇が 百人一首99番歌の歌人 後鳥羽院 として登場。
次の100番歌歌人 順徳院は(=在位時 84代 順徳天皇)
この99番 後鳥羽さんの息子であり、後鳥羽さんに院政をしかれた側の人。 

また、この期間に入る百人一首歌人中の天皇として、
自分が健在であるにもかかわらず 自分の息子を天皇に出来なかった「無念の天皇」
75代崇徳天皇(親が、74代鳥羽天皇。 兄弟が、76代近衛天皇・77代後白河天皇)、
77番歌歌人、崇徳院がいます。

崇徳院は、
父 鳥羽上皇の 「崇徳さんにとっては実に気ままな采配(←院政の一特徴)」 故の
「置きみやげ」 とも言える 跡目争い ( 保元の乱 [1156年] ) で、
「兄弟の後白河天皇」側にやぶれ、讃岐に流される。
下の図は、崇徳さんの 超かんたん生涯年棒図。

なぜ75代崇徳天皇は、壮健な23才で 76代近衛天皇に代わられたのか?
  鳥羽法皇は待賢門院との子である崇徳天皇を退位させ、
  美福門院との子である躰仁親王(崇徳上皇の弟)を即位させた(近衛天皇)。
  崇徳天皇が鳥羽法皇の祖父白河法皇の子だとする風説が流布されており、
  鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていた。  (『古事談』の記述)
この説の信憑性は低いようですが、話としてはとても面白い。

また、77番歌(崇徳院)の前番号(76番)の歌人は、法性寺入道前関白太政大臣。
この法性寺入道前関白太政大臣さん、
俗名は藤原忠通(ただみち)で、元は お公家さん(藤原北家の人)です。
 76 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波  法性寺入道前関白太政大臣

この、百人一首で12文字と 「最も長い歌人名」 である藤原忠通は、次のようなひと。
●平安時代中期に栄華を極めたお公家さん=藤原道長 の5代下 & 頼通の4代下(孫の孫)。
 藤原道長の生没年&生没年差は、966〜1027年 & 61年。 (くるる いれツナ 向いた)
 道長は、平安中期(目安、930〜1060)の代表的人物。 平安時代は、794〜1192 の 約400年。
 道長の有名な歌 ⇒ この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
・百人一首 百歌人中の 藤原族34歌人  南家・京家を含む

・百歌人中の 藤原族34人中  藤原北家流れ31歌人 詳細


保元の乱 [1156年]で後白河天皇側についた人。 (崇徳院陣営にとって敵対陣営の人)
●75番歌で藤原基俊が「あなたってつれない人ですねぇ〜」と
 「あなたは言葉だけは愛想いいけど、一向に約束を実行して呉れないじゃないの」
 と嘆いた、まさにその相手です。
 75 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり   藤原基俊(道長のひ孫 & 頼宗の孫)
●95番歌歌人 前大僧正慈円 の父親
 95 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみぞめの袖    前大僧正慈円
●91番歌歌人 後京極摂政前太政大臣、俗名=九条良経(くじょうよしつね)、の祖父
 九条良経の父が、九条兼実(かねざね)。九条兼実の父が、藤原忠通( ⇒ 出家後、76番法性寺さん)。
 91 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかも寝む     後京極摂政前太政大臣

こういう歴史背景を意識して、77番歌を味わうと、
77番歌の一般的解釈とはまたひと味違った味わいが出来ます。
崇徳さんに関しては、
下右側の浮世絵 「 讃岐に流された崇徳上皇 」 (作、歌川国芳)も面白いですし、
落語 『 崇徳院 』 も有名な古典名作落語です。

77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ     崇徳院




1番歌歌人 天智天皇は、2番歌歌人 持統天皇の父ではあるが、院政とは関わりなし。
 なにより、天智天皇は在位期に崩御した天皇である。 (飛鳥時代)
99番歌歌人 後鳥羽天皇は、100番歌歌人 順徳天皇の父であり、
 順徳天皇の代に院政を布いていた。         (鎌倉時代前期)

天智天皇   626〜 672、生没年差 46。 38代天皇、在位 661〜 672、35才から11年間。
持統天皇   645〜 703、生没年差 58。 41代天皇、在位 690〜 697、45才から 7年間。
後鳥羽天皇 1180〜1239、生没年差 59。 82代天皇、在位 1183〜1198、 3才から15年間。
順徳天皇  1197〜1242、生没年差 45。 84代天皇、在位 1210〜1221、13才から11年間。

補足)
飛鳥時代が、 570頃〜 710年。 約140年間。
奈良時代が、 710年〜 794年。 約 80年間。
平安時代が、 794年〜1192年。 約400年間。
鎌倉時代が、1192年〜1333年。 約140年間。

平安前期が、おおよそ、 9&10世紀 &  800年〜 930年。
平安中期が、おおよそ、10&11世紀 &  930年〜1060年。
平安後期が、おおよそ、11&12世紀 & 1060年〜1190年。


百人一首の1番歌 天智天皇 にからむ出来事は、 645年の 「乙巳の変」。
百人一首の100番歌 順徳院 にからむ出来事は、1221年の 「承久の乱」。


院政の時代には、全国に荘園が数多く作られる。
国司が管轄する土地・公領と合わせて、荘園公領制と呼ばれる体制が成立。

平安時代後期には、源氏・平氏といった武士が台頭。
平安時代末期の白河上皇の時期に、平清盛が政治的な隆盛をきわめる。
結果、平氏一門は「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどの繁栄を誇るほどになる。

しかし、『盛者必衰のことわり』のとおり、
1180年から1185年の 治承・寿永の乱(源平合戦) で、平氏勢は源頼朝らの源氏勢に破れる。
これにより、藤原氏族の摂関政治や上皇による院政などでつないできた
「天皇をトップにし朝廷&貴族がまつりごとをしていた」約400年間に渡る一つの長い時期
古代の最終期=平安時代(794年〜1192年) が終わった。
そして、武家が実権を持ち、まつりごとにたずさわる時代にうつる。
より大きな時代の区切りとして、古代から中世へとうつった。
中世の始まり=鎌倉時代(1192年〜1333年) である。

摂関政治
摂政
天皇が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができないとき、
天皇に代わってそれを行う(政を摂る)役職。
関白
成人後の天皇を助けて政務をつかさどった重職。
関白は、「天子の政務に関(あずか)り白(もう)す」の義で、平安中期、藤原基経をこの任にあてたのに始まる。
次第にその職名となり、天皇が幼少の時は摂政、成人後は関白を任ずる慣例となった。
藤原氏がその地位を独占し、例外は豊臣秀吉・秀次の二人のみ。


院政に関わる百人一首の歌人としては、鎌倉時代の天皇親子がいる。
82代天皇の後鳥羽院(父)と、84代天皇の順徳院(息子)。
このお二人、源将軍が三人で終わったあと、鎌倉幕府の実権を握る「北条族」と対抗する。
この争いが、承久の乱(1221年)。

結果、朝廷側は幕府側に敗れ、二人はそれぞれの地に流される。
父 後鳥羽院は、壱岐島(島根県)。
子 順徳院は、佐渡島(新潟県)。


99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は     後鳥羽院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院


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紀貫之が阿倍仲麻呂の歌を詠む

紀貫之(870頃〜945、差75程)は平安前期の人です。    (平安時代は794〜1192の約400年)
三十六歌仙歌人であり、
日本初の勅撰和歌集(※1)の撰者であり、   (※1)=「古今和歌集」 905年刊
日本初のひらがな文書(※2)の著者です。    (※2)=「土佐日記」  935年刊

(注) 「竹取物語」も ひらがな文書。日本最古とされる物語。
ただし、成立年・作者ともに不詳。作者は諸説あるが特定にいたらず。  関連データ

「土佐日記」ってどういうモノかと見てみると、文書量としては「短編小説」程度の量。
「かな表現文」なので原文も読めますが・・・、古文なので意味が若干分かりません。
そこで、現代語訳を探して読んでみました。すると結構面白かったです。
私が一番関心ひかれたのは、阿倍仲麻呂の歌(百人一首6番歌)を
「あをうなばらふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」 として読んで、
貫之自身の状況と阿倍仲麻呂の状況を思い較べている所です。


『土佐日記』 934年1月19日〜1月21日 の箇所。

934年  (61代朱雀天皇期。  在位:930年9月22日〜946年4月20日 )

1月19日
天候が悪いので船は出さない。

1月20日
昨日と同じようなので、またも船を出さない。人々はみな憂い嘆く。
辛くて気がせいてならず、ただ日数が過ぎたのを、
今日で何日、二十日、三十日と数えるので、指も痛めてしまいそうだ。とても辛い。夜は寝もしない。
二十日の夜の月が出た。山の端もないので、何と海の中から出てくる。
このような月を眺めて、昔、安倍仲麿という人は、唐に渡って帰ってくるときに、
船乗り場であちらの国の人が選別の宴を開いてくれ、別れを惜しみつつあちらの詞を作ったりしたという。
物足りなかったのか、二十日の夜の月が出るまでその場にいたそうだ。
その月はやはり海から出たという。これを見て仲麿は
「わが国ではこのような歌を、神代から、神もお詠みになり、今では上中下の身分の人も、
  このように別れを惜しんだり、喜びや悲しいことがあったりしたときに歌を詠むのです」と言って歌

” あをうなばら ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に いでし月かも ”
(青々と広がった海を遙かに見渡すと、月が上がってきた。
  この月は、故郷の奈良の春日にある 三笠山、あの山に出ていた月と同じなのだなぁ)

を詠んだそうだ。あちらの国の人は、聞いても分からないだろうと思われたが、
歌の意味を漢字に書き表して日本語を習い伝えている人に説明させたところ、
歌の心を理解できたのだろうか、意外なほど感心したという。
唐とこの国とは言葉は違っているが、月の光は同じはずだから、人の心も同じなのだろうか。
そこで今、その昔に思いをはせてある人が詠んだ歌

” 都にて やまのはにみし月なれど なみより出でゝ なみにこそ入れ ”
(都では山の端に見た月だけど、ここでは波から出て波に入っていく)

1月21日
午前六時頃、船を出す。人々が乗っている船はみな出る。
このようすを見ると、春の海に秋の木の葉が散っているようだ。
並々でない願をかけたおかげだろうか、風も吹かず良い天気になって船を漕いでいく。
このような時に使ってもらおうとして、ついてきた子どもがいる。その子どもが舟歌

” なほこそ國の かたは見やらるれ、わが父母ありとしおもへば。 かへらや ”
(今となっても故郷のほうに気が向かう。父や母がいると思うと・・・。さぁ帰ろう)

と歌うのがしみじみと心にしみる。
このように歌うのを聞きながら船を漕いでいると、
黒鳥という鳥が岩の上に集まっている。そしてその岩の下に波が白く打ち寄せている。
船頭が、「黒鳥のもとに白い波が打ち寄せている」と言う。
この言葉は別にどうということはないが、しゃれた言葉にも聞こえた。
船頭には似合わないので、心にとまったのだ。
このように言いながら行くと、船の主が波を見て言った。
「土佐の国を出て以来、海賊が仕返しをするといううわさを心配する上に、
  海がまた恐ろしく、頭もすっかり白くなってしまった。
  七十歳、八十歳のようにふけて見える原因は海にあるんだ。

” わが髪の ゆきといそべの しら浪と いづれまされり おきつ島もり ”
(私の髪の白さと磯部の白波と、どちらが白いか。沖の島の番人よ)

  だよな、船頭さん 」


55日間すべては、コチラで読めます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tosa.htm
門出、   送別の宴、   船出、    大湊の泊、  宇多の松原、 羽根、   
暁月夜、  安倍仲麿の歌、 かしらの雪、 海賊の恐れ、 子の日の歌、 阿波の水門、
黒崎の松、 忘れ貝、    住吉、    淀川、    渚の院、   帰京
の18段落に分けてくれているので読みやすいです。
原文はwikisourceにあります。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98




付1 阿倍仲麻呂、紀貫之について。
付2 「古今和歌集」、「土佐日記」について。
付3 「八代集」、「二十一代集」
(=八代十三代について。

付1 阿倍仲麻呂、紀貫之について。

 阿倍仲麻呂(698〜770、差72)は奈良時代の人。
7番  天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも   の歌人。
第9回の遣唐使団の遣唐使として唐に渡り(717年)、唐で高官に登り詰める。
渡唐して37年後、唐の高僧・鑑真が渡日を果たした第12回遣唐使団の帰船に乗って
帰国の途についた(754年)。
この時、鑑真の船は帰日を果たしたが、仲麻呂の船はベトナム方面へ流される。
結局、仲麻呂は帰国を果たさぬまま、唐で没となる。

 紀貫之(870頃〜945、差75程)は平安時代前期の人。
35番  人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける   の歌人。
三十六歌仙のひとり。
「古今和歌集」(905年) の選者のひとり。
「土佐日記」(935年) の作者。


付2 「古今和歌集」、「土佐日記」について。

 「古今和歌集」 (905年)
撰者は、29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
日本最初の勅撰和歌集。
60代醍醐天皇の勅命によって編まれ、905年に成立、同年春、醍醐天皇に奏上された。
『万葉集』から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めている。略称『古今集』。
古今集は天皇が勅命を出し国家事業として和歌集を編むという伝統を確立した書。
平安中期の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』では
”古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとっての教養 ”
とみなされたことが記されている。
「八代集」・「二十一代集」(=八代+十三代)の第一に数えられる。

 「土佐日記」  (935年)
「日本文学史上初の」のかんむり表現が3つも付く文学(文書)。
・日本文学史上初の、ひらがな文学。
・日本文学史上初の、日記文学。
・日本文学史上初の、諧謔表現文学。 諧謔(かいぎゃく)⇒ジョーク、駄洒落、ユーモア。

934年12月21日〜935年2月16日 の55日間の紀行文。
後の仮名表現による 平安中期の女流文学 の開花に、大きな契機を提供した。
『蜻蛉日記』(かげろう) 藤原道綱母(=53.右大将道綱母)
『和泉式部日記』      和泉式部(=56.)
『紫式部日記』       紫式部(=57.)
『更級日記』(さらしな) 菅原孝標女(タカスエノムスメ=24.菅家の5代下。53.道綱母の姪)

 

付3 「八代集」、「二十一代集」(=八代十三代について。

 「八代集」
古今和歌集、  後撰和歌集、  拾遺和歌集、  後拾遺和歌集、
金葉和歌集、  詞花和歌集、  千載和歌集、  新古今和歌集


 「十三代集」
新勅撰和歌集、 続後撰和歌集、 続古今和歌集、 続拾遺和歌集、
新後撰和歌集、 玉葉和歌集、  続千載和歌集、 続後拾遺和歌集、
風雅和歌集、  新千載和歌集、 新拾遺和歌集、 新後拾遺和歌集、 新続古今和歌集


「八代集」は、平安中期〜鎌倉初期 の勅撰和歌集(国家事業和歌集)。 
「十三代集」は、鎌倉後期〜室町中期 の勅撰和歌集(国家事業和歌集)。

「八代集」の、
   第一代作「古今和歌集」は、
     60代醍醐天皇の勅命。 編者は、
     29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
   第八代作「新古今和歌集」は
     後鳥羽上皇(82代天皇)の勅命。 編者は、
     87.寂蓮(途中で没)、94.飛鳥井雅経、97.藤原定家、98.藤原家隆、
     源通具、六条有家。
「十三代集」の
   第一代作「新勅撰和歌集」は、
     86代後堀河天皇の下命を受けた97.藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も
     九条道家・教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、
     87代四条天皇期の1235年三月に完成し奏上。
   第十三代作「新続古今和歌集」は、
     室町幕府第6代将軍足利義教の執奏により、
     95代後花園天皇の勅宣を以って権中納言飛鳥井雅世が撰進。

なんと、古今和歌集とつく和歌集は4卷あるんですね。  原→親→族→親族
・古今和歌集
・新古今和歌集
・続古今和歌集
・新続古今和歌集
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