歌人と時代背景1 飛鳥後期

飛鳥時代後期(660年頃〜710年)の歌は、
1.天智天皇、 2.持統天皇、 3.柿本人麻呂、 の3首です。

      

01 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ      天智天皇
02 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山         持統天皇
03 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂


飛鳥時代を概観してみます。飛鳥時代は年代では、570年頃〜710年。
この期間の天皇はおおむね、30代敏達天皇〜42代文武天皇です。 

●飛鳥時代の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(飛鳥時代。570頃〜710)   
仏教が芽吹く & 文字化された律令社会が始まる。 (33代推古天皇&厩戸皇子[聖徳太子」)
律・・・犯罪への刑罰法、  令・・・租税など行政法。
古墳から寺へ。   四天王寺(593・大阪市)、法隆寺(607・奈良斑鳩町) 
& 「原始 古墳時代的な不文律社会」を脱皮。
大陸の先進文化&体制の学習・吸収に務める。(遣隋使 600〜・遣唐使 630〜)
飛鳥時代後期には、成文法の及ぶ範囲が、「飛鳥時代前期の宮廷近辺地域」から、全国域へと広がる。
朝鮮半島での戦い「白村江の戦い」に大敗し国防を意識。
これにより、備えをしたり都を移したりもした。(38代天智天皇)
「日本」という国名が遣唐使の時期頃から、「天皇」と言う呼称が40代天武天皇期頃から使われる。


●天皇とその周辺
飛鳥時代前半には、歴代天皇初の女性天皇33代推古天皇、
そして推古天皇の摂政を務めた厩戸皇子(聖徳太子・推古帝の甥)がいる。
この時期、「冠位十二階」(603)・「十七条憲法」(604)が制定され律令国家の基礎をつくる。
また、四天王寺(593・大阪市)、法隆寺(607・奈良斑鳩町)など日本仏教の先駆的寺院が建てられる。

百人一首の歌人範囲は、飛鳥時代後期から。
飛鳥時代後半には、この時期の二大兄弟帝、38代天智天皇と40代天武天皇がいる。
この二人の親は、父が34代舒明天皇、母が37代斉明天皇(夫である34代舒明天皇 の姪)。
ここで、37代斉明天皇は、35代皇極天皇でもあり、歴代初の重祚(ちょうそ)天皇。
この重祚などは、中大兄皇子(=天智帝即位前の皇太子名)の策による。
41代持統天皇は天智天皇の娘だけれど、この持統天皇についてはむしろ、
大海人皇子(後の40代天武天皇)の妻(=13歳の鸕野讃良皇女(ウノノサララヒメミコ)時に嫁いだ)、
&夫・天武天皇の跡を継いだ女帝、とイメージするのが実像に近い。
41代を息子の草壁皇子とできなかったのは、天武帝没後の長い喪中に皇子が27才で病没したため。
百人一首の1番&2番歌人は、38代天智天皇&41代持統天皇。
  

●万葉集について
1 万葉集とは
2 原形は大伴家持の歌集
3 万葉の世紀・万葉の時代
4 万葉歌人  1期〜4期

1 万葉集とは
日本に現存する最古の和歌集。奈良時代に編纂された。
万葉集にはおおむね、600年代(7C)後半から700年代(8C)後半の歌が集められている。

2 原形は大伴家持の歌集
大伴家持(6番歌人中納言家持)は、彼以前に存在した様々な歌の資料をもとに個人的に歌集を作っていた。家持は名門の貴公子として、宮廷周辺に存在したそれらの資料に触れる機会があった。家持は死後、同族の絡んだ事件に連座して名誉を奪われ、家財没収の憂き目に会う。この際に、家持の歌集も没収され朝廷の所有となった。これが万葉集の原形となる。なので、万葉集には家持の歌が最も多い。

3 万葉の世紀・万葉の時代
家持の選んだ歌は、数首ほどの歌を別にすれば、最も古いもので7世紀後半、大化の改新以降のもの。家持自身は、天平宝字3年(759)、正月をめでた歌を最後に歌わなくなる。この間、万葉集に含まれる時期は約100年間。この期間を「万葉の世紀」「万葉の時代」とも言う。
万葉集 巻20-4516  新しき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事

4 万葉歌人
第1期 ⇒ 舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)まで
  額田王(ぬかたのおおきみ)、舒明天皇、天智天皇、有間皇子(ありまのみこ)、
  鏡王女(かがみのおおきみ)、など。
第2期 ⇒ 平城遷都(710年)まで
  柿本人麻呂、高市黒人(たけちのくろひと)、長意貴麻呂(ながのおきまろ)、
  天武天皇、持統天皇、大津皇子、大伯皇女(おおくのひめみこ)、志貴皇子(しきのみこ)、など。
第3期 ⇒ 733年(天平5)まで
  山部赤人大伴旅人山上憶良、高橋虫麻呂(むしまろ)、坂上郎女(さかのうえのいらつめ)、など。
第4期 ⇒ 759年(天平宝字3)まで
  大伴家持、笠郎女(かさのいらつめ)、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)、
  橘諸兄(たちばなのもろえ)、など。

柿本人麻呂は、百人一首3番歌人。
山部赤人 は、百人一首4番歌人。
大伴家持 は、百人一首6番歌人。

大伴旅人は太宰府長官時代に山上憶良の上司。& 大伴家持の父。



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
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歌人と時代背景2 奈良時代

奈良時代(710年〜794年)の歌は、
4.山部赤人、 5.猿丸太夫、 6.中納言家持、 7.阿倍仲麻呂、 の4首です。

         

04 田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ    山部赤人
05 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき       猿丸太夫
06 かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける   中納言家持
07 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも       阿倍仲麻呂


奈良時代を概観してみます。奈良時代は年代では、710年頃〜794年。
この期間の天皇はおおむね、43代元明天皇〜49代光仁天皇です。 

●奈良時代の天皇 在位期間と系図
  
●時代概要(奈良時代。710〜794) 
仏教によって社会の安定を図ろうとする(鎮護国家)。
45代聖武天皇、奈良の大仏を建立(752)。

飛鳥時代に続いて、大陸の先進文化を習うため遣唐使が続けられる。
また、国内の僧侶界の乱れを収めるため、授戒可能な高僧を唐に求める。
結果、10年の探し求め期間の後、高僧鑑真に出会い、さらにその後10年かけて鑑真の招致を果たす。
この時代の文化は唐風色濃い文化(大陸に習った文化)で、当時の元号から天平文化とも言われる。

「国の生い立ち」、「君主の明示と価値付け」、「国のたしなみ」、などの文書化につとめる。
「古事記」太安万侶「日本書紀」舎人親王、「天皇家の系譜」淡海三船、「万葉集」大伴家持、
など各ジャンルの日本最古文書は奈良時代に書き留められた。
神話社会・伝承社会からの脱皮を図る。

この時期に日本は、「国の生い立ち」、「君主の明示と価値付け」、「国のたしなみ」、などの文書化をしなければいけない、あるいはしておきたいという気運になったのでしょう。「日本」という国名は遣唐使の時期頃から、「天皇」と言う呼称は40代天武天皇期頃から使われ始めたと言われています。飛鳥時代に「国名」「君主の呼称」が明確化して、それを受けての各種の文書の整理編纂。日本という国にとってこの時期がそういう時期だったのでしょう。

「日本最古の文書」と言われてる文書群と、編纂担当者であるなどその文書を代表する人物。
・「古事記」 太安万侶(おおのやすまろ)
・「日本書紀」 舎人親王(とねりしんのう)
・「天皇家の系譜」 淡海三船(おうみのみふね)
・「万葉集」 大伴家持(百人一首6番歌歌人)
代表する人物はすべて奈良時代の人。


●天皇とその周辺
奈良時代を象徴するのは、奈良の大仏を建立した45代聖武天皇。
聖武天皇は、天武天皇が天智系から皇位を勝ち取った「壬申の乱」以降から続く、天武系の天皇。
聖武天皇の娘、46代孝謙天皇は重祚(ちょうそ)で48代称徳天皇となっている。
46代孝謙天皇(=48代称徳天皇)は41代持統天皇とは異なり、
父・45代聖武天皇の跡を継いだ女帝、とイメージできる。(生涯独身)
奈良時代は天武系の時代と言える。ただし、49代光仁天皇で天智系に移り、以降天武系は絶える。
百人一首歌人の中には奈良時代の天皇はいない。


●万葉集について
万葉歌人など万葉集の概要を記載
http://hyakuninnissyu.seesaa.net//article/150768991.html#manyou

●平城京を考える
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html
上サイトの興味深いところ一部抜粋(以下)。
ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。・・・

1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
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歌人と時代背景3 平安前期

平安時代前期(794年〜930年頃)の歌は、8.喜撰法師 〜 39.参議等 の32首です。

      

08 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山とひとはいふなり     喜撰法師
09 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
10 これやこの行くも帰るもわかれては しるもしらぬも逢坂の関     蝉丸 
11 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人のつり舟    参議篁
12 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ      僧正遍昭
13 筑波嶺のみねより落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる     陽成院
14 みちのくのしのぶもぢずりたれ故に 乱れそめにしわれならなくに   川原左大臣
15 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ      光孝天皇
16 たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む    中納言行平
17 ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは    在原業平朝臣
18 住の江の岸に寄る波よるさえや 夢の通い路人目よくらむ      藤原敏行朝臣
19 難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をすぐしてよとや    伊勢
20 わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢わむとぞ思ふ   元良親王 
21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな    素性法師
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ      文屋康秀
23 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど    大江千里
24 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに       菅家
25 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな    三条右大臣
26 小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ    貞信公
27 みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ     中納言兼輔
28 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば      源宗于朝臣
29 心あてに折らばや折らむはつ霜の 置きまどはせる白菊の花      凡河内躬恒
30 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし       壬生忠岑 
31 朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪        坂上是則
32 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり      春道列樹
33 久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ       紀友則
34 たれをかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに        藤原興風
35 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける       紀貫之
36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ      清原深養父
37 しらつゆに風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける    文屋朝康
38 わすらるる身をば思わず誓ひてし 人のいのちの惜しくもあるかな   右近
39 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき      参議等


平安時代前期を概観してみます。平安時代前期は年代では、794年〜930年頃。
この期間の天皇はおおむね、50代桓武天皇〜60代醍醐天皇です。

●平安時代前期の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(平安時代前期。794〜930頃)   
50代桓武天皇、都を平安京に構える。
仏教がより政治と結びつき一層社会に浸透。  遣唐使 帰国僧 最澄・空海の活躍。
国風文化の萌芽。 奈良時代の唐風色濃い天平文化から、発展。
「竹取物語」「伊勢物語」「古今和歌集」()「土佐日記」など書かれる。
の撰者は、29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
「土佐日記」は紀貫之による日本初のひらがな文書(紀行文風日記)。
600年から続いた大陸文化の吸収(遣隋使・遣唐使)が、菅原道真(=24.菅家)の提言で終了。

31.坂上是則(800年代末〜930、差40〜50?) は、坂上田村麻呂(758〜811、差53)の4代下。
   田村麻呂 → 浄野[三男]or 広野[次男] → ○○ → 好蔭 → 是則
   是則の生まれを仮に888年とすると、
   田村麻呂の生まれ年758年の130年後なので、4代下というのは理にかなってる。

坂上田村麻呂(758〜811、差53) … 「征夷大将軍となり東北を制圧した」
793年に陸奥国の蝦夷(えみし)に対する戦争で、
     大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。
     弟麻呂(おとまろ)の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、
801年に敵対する蝦夷を討って降した。
802年に胆沢城(いさわじょう・岩手県奥州市)、
803年に志波城(しはじょう・岩手県盛岡市)を築いた。
810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。
平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生む。
近代まで、「文の菅原道真」と「武の坂上田村麻呂」は、文武のシンボル的存在とされた。
お遊び ⇒ 親子で学ぶYouTube 平安時代全期(794〜1192)の 16人

蝦夷(えみし)
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に国力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。 ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならない。


●天皇とその周辺
50代桓武天皇が京に都をかまえて平安時代がはじまります。
50代桓武天皇のあとを三人の息子がそれぞれ即位します。
このうち51代平城さんと52代嵯峨さんが皇位に絡んで揉め事を起こします(薬子の変)。
歌番号14の川原左大臣(=源融)は、52代嵯峨天皇の息子です。
歌番号16&17の在原兄弟は、51代平城天皇の孫です。
「在原」は、「薬子の変」で皇統が51代平城天皇から52代嵯峨天皇に移ったため、
51代平城さんの孫の代で臣籍降下して生まれた「氏」です。
「薬子の変」のあとは静かに親から子、子から孫へと皇位が継承されてます。
57代陽成天皇は7才で即位15才で退位してます。
元良親王は57代陽成天皇の退位後の子です。
57代陽成天皇は在位中、正式な妃の入内がありません。
祖父の兄弟の58代光孝天皇に譲位してます。
12番僧正遍昭 と 21番素性法師は、50代桓武天皇の孫&ひ孫です。

28番源宗于朝臣は、58代 光孝天皇の孫。 ← 是忠親王 ← 光孝天皇
39番参議等(源等[ひとし])は、52代 嵯峨天皇のひ孫。 ← 希 ← 弘 ← 嵯峨天皇



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
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歌人と時代背景4 平安中期

平安時代中期(930年頃〜1060年頃)の歌は、40.喜撰法師 〜 70.参議等 の29首です。 
(66.大僧正行尊、67.周防内侍 は平安後期としました。)

      

40 忍ぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで     平兼盛 
41 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか    壬生忠見
42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは       清原元輔
43 あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり     権中納言敦忠
44 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし   中納言朝忠
45 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな   謙徳公
46 由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行方も知らぬ恋のみちかな      曾禰好忠
47 八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり    恵慶法師
48 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな    源重之
49 みかきもり衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ   大中臣能宣
50 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな      藤原義孝 
51 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原実方朝臣
52 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣
53 なげきつつひとりぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る 右大将道綱母
54 わすれじの行末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな     儀同三司母
55 滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ     大納言公任
56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部
57 めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58 ありま山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門
60 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立        小式部内侍 
61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
62 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ      清少納言
63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな   左京大夫道雅
64 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木    権中納言定頼
65 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ    相模
  ( 66.大僧正行尊、67.周防内侍 は平安後期の先頭へ )
68 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな     三条院
69 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり         能因法師
70 さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮     良暹法師 


平安時代中期を概観してみます。平安時代中期は年代では、930年頃〜1060年頃。
この期間の天皇はおおむね、61代朱雀天皇〜70代後冷泉天皇です。

●平安時代中期の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(平安時代中期。930頃〜1060頃)   
臣籍降下した家系から、後の「武家の源流」が生まれる。
50代桓武天皇系で桓武平氏、52代嵯峨天皇系で嵯峨源氏、・・・など。
平将門(桓武天皇のひ孫の孫)が関東で力を振るい関東を独自領域化するが朝廷に平定される。
京では、藤原家が天皇の摂関家として力を振るう。
それも影響してか文化面で、純国風文化が絢爛に花開く。
藤原道綱母 『蜻蛉日記』、清少納言 『枕草子』、紫式部 『源氏物語』、・・・など。
10円銅貨に描かれている 『 平等院鳳凰堂 』 は、創建年1052年、開基は藤原頼道(道長の長男)。

( 紫式部は藤原血統、 清少納言は清原血統&40代天武天皇の末裔[10代下]
紫式部は藤原血統
57番紫式部は、27番中納言兼輔[=藤原兼輔]の曾孫(ひ孫)、 & 58番大弐三位の母。
98番従二位家隆[=藤原家隆]は、27番中納言兼輔の9代下 & 57番紫式部の祖父(雅正)の8代下。
・兼輔→雅正→為時→式部→三位。
・兼輔→雅正→為頼→伊祐→頼成→清綱→隆時→清隆→光隆→家隆。
清少納言は清原血統
・62番清少納言 ← 42番清原元輔 ← 清原顕忠 ← 36番清原深養父
・天武天皇→舎人親王→貞代王→(清原)有雄→通雄→海雄→房則→深養父→顕忠→元輔→清少納言
・舎人親王(とねりしんのう、676〜735、差59)は「日本書紀」編集の総裁。


●天皇とその周辺
ここで「平安中期の歌人」とした先頭のお二人(40番平兼盛と41番壬生忠見)の歌は、
「天徳内裏歌合」での決戦歌です(最終の20対戦目・題目は「恋」)。
天徳内裏歌合」は、62代 村上天皇によって行われた歌会。
決戦で負けた壬生忠見はとても悔しんだと言われています。
「忠見は、出世を懸けて詠んだ歌が接戦の末に負けたことを悲観し、
 その後食べ物を受け付けなくなり、そのまま死んだ」という逸話があるほど。
私には「しのぶれど・・・」の方が素直にイメージが彷彿としてくるので圧倒的に良いです。
当時のことは分かりませんが、私には「忠見さん、それほど悔しがるほどの出来ではないですよぉ。
ちょっと懲りすぎなんじゃない」と言った感じです。 ( ← 忠見さん、ごめんなさい。 <(_ _)> )

この時期の百人一首皇族歌人は67代三条天皇一人です。ですが、
この時期にオンパレードする女官女房である女性歌人の裏に、
66代一条天皇が鮮明に浮かび上がってきます。66代一条天皇と67代三条天皇は従兄弟です。
百人一首全体の女性歌人は21人ですが、内11人がこの時期に集中してます。
53番右大将道綱母(=『蜻蛉日記』の著者)〜67番周防内侍です。
56番和泉式部からがほぼ、66代一条天皇の夫人(彰子or定子)に付いた女官女房です。
この期間の百人一首女官女房歌人の中では、清少納言だけが定子の女官女房です。
ここで、彰子は藤原道長の娘。そして、早世する定子は藤原道隆[道長の兄]の娘。
(この辺りのことがよく分かるお話 ⇒ 下記の参考1&2)    
彰子は道長によって、一条天皇と定子の間にねじり込められたとも見える女性ですが結果として、
一条天皇との間にのちの、68代 後一条天皇 & 69代 後朱雀天皇を産んでいます。

53番右大将道綱母(=藤原道綱母・『蜻蛉日記』の著者)は道長の父の夫人です。
54番儀同三司母は道長の兄[道隆]の夫人ですし、一条天皇の早世した后・定子 の母です。
ですので、54番儀同三司母は、62番清少納言が仕えた皇后(定子) の実母ですね。
「儀同三司」は息子・藤原伊周(これちか、974〜1010、差36) の「官名」。
伊周は定子(977〜1001、差24)の兄。「平等院鳳凰堂」を建てた藤原頼道(道長の長男)と同世代。

これらのことからもこの時期の雰囲気がなんとなく伺えますが、
この時期は、藤原家(公家)が天皇の摂関家として「我が世の春」を謳歌した時期。
藤原道長(966〜1027、差61)の次の歌の時期です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
私などは、「平安中期(930頃〜1060頃)はまさに藤原道長の時代だなぁ」と思ってしまいます。

参考1) 道隆[道長の兄]、定子、清少納言、枕草子、が分かる ⇒ 『枕草子』は定子への鎮魂歌か?
参考2) 母性愛の彰子×野心家の道長、 随筆の枕草子×小説の源氏物語
・『源氏物語』で、光源氏の父親・桐壺帝は、代としては「60代醍醐天皇」に相当します。光源氏のモデルとして、54代仁明天皇の兄弟・源融(14番川原左大臣)や58代光孝天皇(15番歌人)があげられてます。壮年期の光源氏のモデルは藤原道長のようでもあります。紫式部は66代一条天皇期の女官ですから、身近な彰子や定子も結構モデルにしてますね。

関連記事 ⇒ 四子を四天皇へ入内させた道長



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
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歌人と時代背景5 平安後期

平安時代後期(1060年頃〜1192年)の歌は、66.大僧正行尊 〜 92.二条院讃岐 の 24首。
(68.三条院、69.能因法師、70.良暹法師 は平安中期の人としました。)

      

66 もろともにあはれとも思へ山桜 花よりほかに知る人もなし      大僧正行尊
67 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ     周防内侍
  (68.三条院、69.能因法師、70.良暹法師 は平安中期へ )
71 夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く       大納言経信
72 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ   祐子内親王家紀伊
73 高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ       前中納言匡房
74 憂かりける人をはつせの山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを   源俊頼朝臣
75 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり      藤原基俊
76 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波     (歌人1)
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ     崇徳院
78 淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜寝ざめぬ須磨の関守        源兼昌
79 秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ    左京大夫顕輔
80 長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ     待賢門院堀河 
81 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる    後徳大寺左大臣
82 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり      道因法師
83 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる    皇太后宮大夫俊成
84 ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞいまは恋しき 藤原清輔朝臣
85 夜もすがらもの思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり  俊恵法師
86 なげけとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな       西行法師
87 むらさめの露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ     寂蓮法師
88 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
89 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ることの弱りもぞする     式子内親王
90 見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず   殷富門院大輔 
91 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかも寝む     (歌人2)
92 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし      二条院讃岐
(歌人1) ・・・ 法性寺入道前関白太政大臣
(歌人2) ・・・ 後京極摂政前太政大臣


平安時代後期を概観してみます。平安時代後期は年代では、1060年頃〜1192年。
この期間の天皇はおおむね、71代後三条天皇〜81代安徳天皇です。

●平安時代後期の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(平安時代後期。1060頃〜1192年)   
平安中期の末期から東北地方で戦乱が続く。
前九年の役(1054〜1062・覇者=清原) & 後三年の役(1083〜1087・覇者=奥州藤原)。
この戦乱後、奥州藤原氏は 4代 100年に渡って() 繁栄を極め、
奥州藤原氏が拠点とした平泉は平安京に次ぐ都市となり、戦乱の続く京を尻目に発展した。(平泉文化)
中尊寺(天台宗東北大本山・岩手県西磐井郡平泉町)は
奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)が
従来よりあった寺院に大規模整備を施した寺院。
 「4代 100年に渡って」
平安末期、源頼朝が「弟の義経に絡めて」など難癖をつけ倒したため。 奥州合戦(1189年)

京では、72代白河・74代鳥羽・77代後白河 各天皇が退位後、上皇となり院政が続く。これが、
朝廷を軸にした争い(保元の乱&平治の乱)も産む。ここで平氏が要領よく朝廷と結びつく。
結果、平安末期は「平氏にあらずんば人に在らず」の時期ともなる。
しかし、「奢れる者、久しからず」。栄華を極めた平清盛は病没し(1181年)
その妻 時子は壇ノ浦で7才の孫81代安徳天皇を抱いて海に沈む(1185年)。


●天皇とその周辺
75代崇徳天皇は退位後、皇位&崇徳さんにとっての院政の座 を巡った揉め事「保元の乱」に敗れます。その結果、崇徳さんは讃岐に流されます。崇徳さんにまつわる話を読むと、崇徳さんって、一応の崇徳さんの父とされる先代の74代鳥羽さん達の気ままな采配に翻弄された、「無念の帝」のように思えてきます。右のような浮世絵を見ると、余計にそう言うイメージが膨らみます。そのうえで、崇徳さんの77番歌「瀬をはやみ・・・」を味わうと、この歌の一般的解釈とはまた違った解釈がわいてきます。

式子内親王は、どちらかの片思いなのか相思相愛なのか、定家との色っぽい関係が伝えられる内親王です。この手の話題に触れるとき、お二人の生没年を頭の片隅に置いておくとより楽しめると思います。
       生年   没年  生没年差
式子内親王 1149 1201  52   77代後白河天皇の第3皇女
藤原定家  1162 1241  79   内親王より13下。39の時、内親王没。

定家が40才頃の時、内親王は50代前半で他界。その後定家は40年ほど存命。
1192年を区切りとすると、式子内親王は平安後期の人、定家は鎌倉前期の人、とも言える。
内親王と定家と法然
定家にとって内親王は単なる主人ではなく、強く意識されるあこがれの年上女性?

平安時代後期には皇位の争いごとに武家も大きく絡んできます。平安時代後期は、天皇家の院政と巧みに結びついた平氏(武家)が、「我が世の春」を謳歌した時期です。次の表現が平安後期を象徴しています。「平氏にあらずんば人にあらず」。

平安時代後期を象徴するのに、天皇を退いたあとの上皇による院政もあります。院政の象徴的な人物の一人が、式子内親王の父でもある77代後白河さん。この77代後白河さんに巧みに取り入って権力を振るったのが平清盛。ところが、「おごれるもの久しからず」。源平合戦とも言われる「治承寿永の乱」で平氏は滅びます。平氏の滅亡を象徴する場所が、山口県下関の壇ノ浦。ここで「壇ノ浦の戦い」が行われます。そして、平清盛の妻 時子に抱かれた、時子自身の孫である、僅か7才の81代安徳天皇が、時子と共に壇ノ浦の海に沈みます。
 

●「院号」について
女院の尊称。66代一条天皇の母后(皇太后藤原詮子)が「東三条院」の院号を受けたことが始まり。
これ以降、朝廷では皇后や皇太后、太皇太后などの三后にも、院号を贈ることが慣習化した。
「東三条院」以降、「上東門院」(藤原彰子 )をはじめとした「門院号」を贈ることが通例化された。
女院の院号を定める公卿の評定を「院号定め」、院号を授けることを「院号宣下」という。
 
道長の長女。「66代一条天皇の中宮」。
68代後一条天皇、69代後朱雀天皇の実母。
百人一首歌人では、56番歌人から61番歌人まで、
56.和泉式部・57.紫式部・58.大弐三位・59.赤染衛門・60.小式部内侍・61.伊勢大輔
が彰子の女官として仕えた歌人である。

「院号」の第一号&二号は、藤原道長の姉(詮子)と長女(彰子)。
このようなことからも、この当時の藤原勢の勢いがよく分かる。

この時期の院号などの付いた女性五歌人、
72.祐子内親王家紀伊、 80.待賢門院堀河、
88.皇嘉門院別当、   90.殷富門院大輔、 92.二条院讃岐 
に絡めて。
祐子内親王
  69代後朱雀天皇の皇女。
  歌合を盛んに催すなど一大サロンを形成。
  祐子内親王家紀伊や菅原孝標女(※)などが仕えた。
待賢門院
  藤原璋子(しょうし)の院号。  (66代一条天皇の中宮[道長の長女]は彰子。 読み同じ、字は違う)
  74代鳥羽天皇の中宮。75代崇徳天皇&77代後白河天皇の母。
皇嘉門院
  藤原聖子(きよこ)の院号
  75代崇徳天皇の中宮。76代近衞天皇の養母。
殷富門院
  亮子内親王(りょうしないしんのう)の院号。
  77代後白河天皇の第1皇女。   (89.式子内親王は後白河天皇の第3皇女)
二条院
  92.二条院讃岐の「二条院」は、二条天皇(二条院)をさす様子。
  讃岐は、二条天皇に仕え、天皇が崩御した後に結婚し母となる。
  その後、後鳥羽天皇の中宮任子(宜秋門院)に再出仕。この後は出家。
  隠棲後も後鳥羽上皇、順徳上皇の歌壇に迎えられ、
  「正治二年初度百首」「千五百番歌合」に詠歌が採られている。

(※)
菅原孝標女(すがはらたかすえのむすめ)
『更級日記』の著者。菅原道真の5代下。53.右大将道綱母は、叔母に当たる。



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
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