百人一首 百首の時代背景歴史 目次


1. 小倉百人一首の時代背景
  百首は 日本の歴史のどの範囲?
  1番歌は聖徳太子でも良かったんじゃない?
  百人一首歌人 生没年一覧分布図
 

2. 藤原家系&冷泉家について
  定家の生没年の覚え方
  定家は藤原北家の流れの人
  定家は御子左家の流れの人
  定家は冷泉家の人?
  定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる
  

3. その他
  百人一首の編者 藤原定家 の意図・思惑、 百人一首と天皇、 100歌人の生没年分布
 
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1番歌は聖徳太子でも良かったんじゃない?

百人一首の歌人は、7世紀後半から13世紀初頭の人々です。

その時代範囲は、古代の 「飛鳥時代・奈良時代・平安時代」、
そして中世の始まりの 「鎌倉時代」。

飛鳥時代で始まるのは
2番歌の持統天皇の歌が「〜天の香具山」なので典型的。
鎌倉時代で終わるのは、
93番歌の歌人が鎌倉右大臣(源実朝)なので典型的。

これを歴史年表的に少しだけ詳しく見てみると
以下のようになります。
となりのヘンなイラスト( → )
と照らし合わせて頂くと、面白いカモカモです。 σ(^_^;)アセアセ


■古代1. 飛鳥時代 6世末〜710 
聖徳太子(574〜622、48才)
・冠位12階・憲法17条を制定
・集権的官僚国家の基礎を成す
・遣隋使を派遣し大陸文化の導入に尽力
四天王寺(593創建、聖徳太子開基) in 大阪市天王寺区
法隆寺(607創建、推古天皇33代&聖徳太子開基)in生駒郡斑鳩町
乙巳の変(622)  中大兄皇子、中臣鎌子(鎌足)、蘇我入鹿
大化の改新(645)  01.天智天皇38代 藤原鎌足(氏祖・0代)


■古代2. 奈良時代 0710〜0794 平城京遷都(710)
東大寺(8世紀前半創建、聖武天皇45代 開基)
奈良の大仏(745開始〜752完成)
鑑真(688生〜753来日〜763奈良で没、75才)
唐招提寺(759創建、鑑真開基)in奈良市


■古代3. 平安時代 0794〜1192 平安京遷都(794)
最澄(767〜822、55才)天台宗、延暦寺in滋賀県比叡山
空海(774〜835、61才)真言宗、東寺in京都市・金剛峯寺in和歌山高野町
藤原道長(0966〜1028、62才)
保元の乱(1156) ← 77.崇徳院 
源平の戦い(1180〜1185)


■中世1. 鎌倉時代 1192〜1333 
承久の乱(1221)  ← 99.後鳥羽院、100.順徳院
藤原定家 没(1162〜1241、69才)
蒙古襲来(1274、1281)
 

これを見て、現代人の凡人の私がふと思ったのです。
「定家は1番に聖徳太子を持ってきても良かったのに」と。
今は、1万円札と言えば福沢諭吉ですが、
少し前までは聖徳太子像でしたし。

でも、定家が1番に天智天皇を持ってきたのには
定家なりの背景がありそうなんです。

それは、天智天皇は天皇になるまえは中大兄皇子。
その中大兄皇子を支えたのは中臣鎌子(or中臣鎌足)。
その支えのお陰もあり中大兄皇子は38代天智天皇になる。
( 乙巳の変(622) & 大化の改新(645) )

その天智天皇から中臣鎌子は、その貢献に対し藤原姓を与えられる。
ここに藤原氏が始まる。

それで、藤原氏の祖をもたらした天皇だから天智天皇を最古歌とした。
私はこう思っています。


これへの更なるこだわり「定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる


このシリーズの3記事(この記事自体を含む)
1.百首は 日本の歴史のどの範囲?
2.1番歌は聖徳太子でも良かったんじゃない? (この記事デス)
3.定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる

&.記事 up person プロフィール
 
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百人一首の編者 定家の意図・思惑、百人一首と天皇、100歌人の生没年分布


■小倉百人一首の編者 藤原定家の意図・思惑。

小倉百人一首の歌番号は、編者の藤原定家が付けたものではなく、
後の世(江戸時代?)の誰かが付番したと言われています。
それでも、小倉百人一首の選歌にさいして藤原定家は意図的に、
「天皇親娘」で始め「天皇親子」で終わらせていると、十分伺えます。
   このサイト内での関連記事:
     ・百人一首 百首の時代範囲・歴史
     ・百人一首は歌織物 ( 百人一首の配置図 ) 林 直道 さんの説ですが、面白いです。

小倉百人一首には、この4人の天皇のほかに、途中にも4人の天皇がおり、
計8人の天皇が登場します。
冒頭 ⇒ 天智天皇(1番)、持統天皇(2番)
末尾 ⇒ 後鳥羽院(99番)、順徳院(100番)
途中 ⇒ 陽成院(13番)、光孝天皇(15番)、三条院(68番)、崇徳院(77番)

天皇の他に、親王(20番 元良親王)、内親王(90番 式子内親王)もいます。

百首の内の1割が皇族というのが面白いです。
もちろん、天皇・親王・内親王、でなくてもほとんど皇族のような歌人も沢山います。

そういう意味で、百人一首に接し続けてきて私が感じはじめたのは、
『百人一首には「皇族」という「幹」が一本入っているなぁ〜』ということでした。
そしてこのことから発展し、私にとって百人一首に親しむことは
和歌に親しむことはもちろんですが、
日本を知る、日本の歴史に親しむことにもなりました。


■古代区分 平安時代(前期・中期・後期)の 歴代天皇   (画像クリックで全125代表示されます)


  百人一首がからむ4時代の 年範囲と関連天皇 (百人一首は38代天智天皇〜84代順徳天皇)
  飛鳥時代(6C末 〜 710)  33代 推古天皇  〜 42代 文武天皇
  奈良時代( 710 〜 794)  43代 元明天皇  〜 49代 光仁天皇
  平安前期( 794 〜 930)  50代 桓武天皇  〜 60代 醍醐天皇
  平安中期( 930 〜 1060)  61代 朱雀天皇  〜 70代 後冷泉天皇
  平安後期(1060 〜 1192)  71代 後三条天皇 〜 81代 安徳天皇
  鎌倉時代(1192 〜 1333)  82代 後鳥羽天皇 〜 96代 後醍醐天皇


■歌人の生没年分布図   (画像クリックで標準サイズで表示されます)

生没年未詳の歌人については、没年齢を 原則 50才として、
ネット辞典wikipedia なども参照し 極力正確を期して生没年を設定しました。
 
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小倉百人一首期の日本史を概観

日本の歴史区分は下表のとおりです。
百人一首の時代範囲は、
660年頃〜1240年頃。

飛鳥後期(約 50年)、
奈良時代(約 80年)、
平安前期(約130年)、
  中期(約130年)、
  後期(約130年)、
鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。
歴史的出来事と対応させると
 645年の 「 乙巳の変 」 (これを契機に”全国的な”成文法統治が始まる) から
1221年の 「 承久の乱 」 (事実上の「朝廷公家政治の終わり」) まで。
以降 時代は、
北条の鎌倉 ⇒ 足利の室町 ⇒ 上杉武田伊達今川などの戦国 ⇒ 織田豊臣の安土桃山 ⇒
徳川の江戸 ⇒ そして明治〜昭和20年の近代 & 昭和20年以降の現代。

小倉百人一首に関わる 「 飛鳥時代から鎌倉時代 」 を概観しながら、
この600年間の各時期の百人一首歌を確認してみました。



飛鳥時代  570年頃〜710年   天皇の目安:30代〜42代

  仏教が芽吹く & 律令による成文法社会が始まる。 (33代推古天皇&厩戸皇子[聖徳太子」)
  律・・・犯罪への刑罰法、  令・・・体制や租税など行政法。
  古墳から寺へ。 四天王寺(593・大阪市)、法隆寺(607・奈良県生駒郡斑鳩町)など。 
  & 「原始 古墳時代的な不文法社会」を脱皮。
  大陸の先進文化&体制の学習・吸収に務める。(遣隋使 600〜・遣唐使 630〜)
  朝鮮半島での戦い(663年) に大敗し国体を強く意識。その後、国防や遷都もした。(38代天智天皇)
  表現の始まり ⇒ 『日本』が遣唐使の時期頃から、『天皇』が40代天武天皇期頃から使われる。
   ⇒ 歌人と時代背景1 飛鳥時代 後期
  
 遣隋使は推古期のみ。遣唐使は舒明期から。
   随(581〜618) 約40年間
   唐(618〜907) 約300年間
   690〜705の間は唐王朝ではなかった。
 2/8 3/8 4/8 ←6分頃から「秋の田の〜」の逸話  5/8 6/8 7/8 8/8



奈良時代  710年〜794年   天皇の目安:43代〜49代
  仏教によって社会の安定を図ろうとする(鎮護国家)。
  45代聖武天皇、奈良の大仏を建立。 唐の高僧・鑑真を、授戒僧として招日。
  「国の生い立ち」、「君主の明示と価値付け」、「国のたしなみ」、などの文書化につとめる。
  「古事記」太安万侶「日本書紀」舎人親王、「天皇家の系譜」淡海三船、「万葉集」大伴家持、
  など各ジャンルの日本最古文書は奈良時代に書き留められた。
  神話社会・伝承社会からの脱皮を図る。
  大陸文化の影響を受けた唐風文化が開花。 (天平文化)
   ⇒ 歌人と時代背景2 奈良時代
  



平安前期  794年〜930年頃   天皇の目安:50代〜60代
  50代桓武天皇、都を平安京に構える。
  仏教がより政治と結びつき一層社会に浸透。  遣唐使 帰国僧 最澄・空海の活躍。
  律令を日本に適した内容に改変。 天平文化の発展として国風文化が萌芽。
  「竹取物語」 「伊勢物語」 「古今和歌集」(905年 ) 「土佐日記」(935年) など書かれる。
  の撰者は、29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
  「竹取物語」 & 紀貫之による紀行文風 「土佐日記」 は、日本初のひらがな文書。
  600年から続いた大陸文化・体制の学習・吸収(遣隋使・遣唐使)が 24.菅原道真の提言で終わる。
   ⇒ 歌人と時代背景3 平安時代 前期
  
  東儀秀樹(とうぎひでき、1959年生)
 東儀⇒奈良時代からの楽家(がくけ)の家系



平安中期  930年頃〜1060年頃   天皇の目安:61代〜70代
  臣籍降下した家系から、後の「武家の源流」が生まれる。
  50代桓武天皇系で桓武平氏(将門・清盛)、56代清和天皇系で清和源氏(頼朝)、など。
  平将門(桓武天皇のひ孫の孫)が関東で力を振るい関東を独自領域化するが朝廷に平定される。
  京では、藤原家が天皇の摂関家として力を振るう。
  この藤原家の勢いはまた、文化面で純国風文化を絢爛に開花させる。
  藤原道綱母 『蜻蛉日記』、清少納言 『枕草子』、紫式部 『源氏物語』、など。
  10円銅貨の 『 平等院鳳凰堂 』 は創建年1052年、開基は藤原頼道(道長の長男)。
   ⇒ 歌人と時代背景4 平安時代 中期
  
2/5 3/5 彰子の入内・定子の他界・道長と源氏物語 4/5 道長の暴走・式部&彰子の思い 5/5



平安後期  1060年頃〜1192年   天皇の目安:71代〜81代
  平安中期の末期から東北地方で戦乱が続く。
  前九年の役(1054〜1062・覇者=清原) & 後三年の役(1083〜1087・覇者=奥州藤原)。
  この戦乱後、奥州藤原氏は4代100年に渡って繁栄を極め、奥州藤原氏が拠点とした平泉は
  平安京に次ぐ都市となり、戦乱の続く京を尻目に発展した。(平泉文化)
  京では、72代白河・74代鳥羽・77代後白河 各天皇が退位後、上皇となり院政が続く。これが、
  朝廷を軸にした争い(保元の乱平治の乱)も産む。ここで平清盛が朝廷と結びつき全盛を迎える。
  しかしほどなくして平氏は大きな反発を買い、治承寿永の乱(≒源平合戦)で敗れる。
   ⇒ 歌人と時代背景5 平安時代 後期
   
  親子で学ぶYouTube 平安時代の 16人
 2/6  3/6  4/6  5/6  6/6



鎌倉時代  1192年〜1333年   天皇の目安:82代〜96代
  「治承寿永の乱」、そして「奥州合戦」などを経て、鎌倉幕府が成立する。
  頼朝没後、義父・北条時政が初代執権となり、頼家・実朝は謀殺・暗殺される。
  源氏将軍の断絶を契機に、後鳥羽上皇(82代)が権威挽回のため討幕に走るが、敗北。
  幕府は武家の法令「御成敗式目」を制定。 それまでの公家目線の「律令」を改変。
  後期に、二度にわたり元が攻め入る。( 元寇 ・ 文永の役(1274)、弘安の役(1281) )
  元寇で乱れ弱った幕府を見て、96代後醍醐天皇が倒幕を企てる。結果として、足利尊氏が
  室町初代将軍となり、朝廷は60年余り南北に別れる。以降、朝廷は政治の実権力から遠ざかる。
   ⇒ 歌人と時代背景6 鎌倉時代 前期
  



●飛鳥時代以降の天皇の居住地(日本の首都?)

歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。
古墳時代以降は、皇居のための宮殿(御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、
首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

宮殿や貴族の邸宅であっても、
奈良時代までは基本的に掘立柱建築だったため、建物の耐用年数が短かった。
同じ掘立柱建築である伊勢神宮の遷宮は20年に1回である。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、
政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。
中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京・平城京・平安京などでは、
計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、
地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、
いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。


●平城京を考える
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html
上サイトの興味深いところ一部抜粋(以下)。
ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(※1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。・・・

※1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD
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天智天皇の 「 秋の田の・・・ 」 は福岡で詠んだ歌かも


1番歌  秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ   天智天皇(=38代天皇)

中大兄皇子(=38.天智天皇)は母親の37.斉明天皇ともども、
「当時の日本の指導層一体」で九州方面に出向いてまで、「白村江の戦い(663年)」に臨んだんですね。
下のYouTubeの6分過ぎあたりからに拠ると、「斉明天皇が遠征中に亡くなった(661年)。中大兄皇子はその死を悲しみ、遠征先の小屋で  ” 秋の田の・・・ ”  と詠んだ」 そうです。
  
 遣隋使は推古期のみ。遣唐使は舒明期から。
   随(581〜618) 約40年間
   唐(618〜907) 約300年間
   690〜705の間は唐王朝ではなかった。


1分50秒で分かる「白村江の戦い」
 645年(大化元年) 
 中大兄皇子と中臣鎌足によって、
 蘇我氏宗家が滅ぼされる。⇒乙巳の変
 中大兄皇子の叔父が即位。⇒36.孝徳天皇
 体制の改新が始まる。
  ⇒ 「大化の改新」

 中臣鎌足=藤原鎌足・定家の16代上
 「大化」は日本最初の元号。
 「白村江の戦い」は663年。


それだけ、百済の復権救済(自国の勢力拡張の意図もあったのでしょう)に気合いを込めてたんですね。
なるほどだから、「万葉集に出てくる額田王(ぬかたのおおきみ)の次の歌が 愛媛県の松山市 あたりで詠んだ歌」 とされてるんだ、と納得した次第です。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな   万葉集巻1−8  額田王
にきたつに ふなのりせんと つきまてば しおもかないぬ いまはこぎいでな
原文: 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

この歌に出会ったとき、なぜこの時期の貴族の女性が愛媛県の松山市あたりで「しかも潮目を読むかのような」歌を詠んだのか、疑問だったのです。この歌の作は、額田王ではなく、斉明天皇だとも言われているのですが。

左画像は、 ”熟田津 ” と ”朝倉宮 ” の大まかな位置

朝倉宮は博多湾から30kmほど奥まった場所。
「熟田津に・・・」の歌で伺われるように、
船で向かった白村江への遠征なのに、
とても用心深い位置に拠点を置いてます。
これに対して面白い古代史想像遊び
をしているお方を発見。

日本人のルーツを訪ねて(朝倉宮)

額田王か斉明天皇が、現在の愛媛県松山市あたりで「熟田津に・・・」と詠んだのだったら
中大兄皇子が、同じく福岡県朝倉市で「秋の田の・・・」と詠んだとしても一向におかしくはないですよね。
私はずっと、「秋の田の・・・」は、定家が「詠み人知らず」の歌をあえて「農耕を尊ぶために」と「天智天皇の歌」とした、と解釈してましたので、冒頭の番組で「新しい伝説」を得て新鮮な気持ちに成れました。


日本の歴史区分は、原始が旧石器・縄文・弥生・古墳、古代が飛鳥・奈良・平安、となってます。百人一首に接してきたお陰で私自身が分かったのは、古代の日本の姿です。とりわけ、朝鮮半島との関係。当時は、日本と半島に国境というようなイメージなど薄く、その時々の情勢で自在に統治域が変わっていたのでしょうね。お互いの往き来も自然な形で行われていたのだと思われます。日本の古代国家(大和王朝)は、先住系の縄文人・渡来系の弥生人、が融合し発展した集落の内、もっとも勢力を強めた地域(近畿地方)を拠点として成立したのだろうと、思うようになりました。
 [参考] 任那日本府(みまなにほんふ) 
 当時の呼称は倭府(やまとのつかさ)?
 日本書紀の欽明紀()に記されている「倭国の統治機関」。古代朝鮮半島南部の「伽耶(かや)またはその一部である任那」にあったとされる。実在については諸説があり詳らかではない。ただし、倭人のなにがしかの集団が同地域に存在していた、との見方が一般的。
  欽明天皇   第29代天皇。(6世紀)
・在位期間は539年〜571年。(古墳時代)
・歴代初の女性天皇33代推古天皇の父親。
欽明天皇・推古天皇近辺の天皇系図
 YouTube 任那日本府の謎   9回シリーズ  ⇒ 、 、 、 、 、 、 、 、 
「白村江の戦い」(663年・飛鳥時代)には、「古代の日本が海外で戦い!?」 と驚かされたのですが、
「任那日本府」は、それ以前の、古墳時代のお話ですからねぇ。


飛鳥時代以降の天皇の居住地(日本の首都?)


以下は、wikipedia 「天皇居住地の変遷」 冒頭部 抜粋

歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。
古墳時代以降は、皇居のための宮殿(御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、
首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

宮殿や貴族の邸宅であっても、
奈良時代までは基本的に掘立柱建築だったため、建物の耐用年数が短かった。
同じ掘立柱建築である伊勢神宮の遷宮は20年に1回である。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、
政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。
中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京・平城京・平安京などでは、
計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、
地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、
いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。


●平城京を考える
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html
上サイトの興味深いところ一部抜粋(以下)。
ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。・・・

1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD
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