歌の意味解釈 71〜75番

71 夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く     大納言経信
72 音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ    祐子内親王家紀伊
73 高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ      前中納言匡房
74 憂かりける人をはつせの山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを 源俊頼朝臣
75 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり    藤原基俊



■71 大納言経信(だいなごんつねのぶ、1016〜1097)
源経信。和歌・詩文・管弦にすぐれ、数々の歌合に出席。歌合での判者も努めた。
任地の太宰府で没する。

夕されば門田の稲葉おとづれて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く

夕方になると、家の前にある田んぼの稲の葉に 秋風が吹き さやさやと音を立てる。
その秋風は、私が居る この葦葺きの田舎家(山荘)にも吹きわたっています。 あぁ〜心地良い〜

〜ば、〜て、〜に、〜吹く。接続の言葉が自然に続いているので、歌の調子がとても滑らか。
秋の寂しさと言うよりも、清らかで涼やかな秋をイメージさせる。
京都郊外の別荘で貴族が集まり、 '田園の家の秋風' の題で歌を詠み合った時のもの。



■72 祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい、11世紀後半)
平安後期の女流歌人。生没年不詳。
祐子内親王(後朱雀天皇皇女)に仕えた。『堀河百首』の歌人の一人。

音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ

あの有名な 高師の浜の いたずらに立つ波には かからないようにしますわね。
だって、袖が濡れると大変ですもの。
そうそう、噂に高い貴方の言葉に 騙されませんわよ。あとで、袖が涙で濡れるの厭ですもん〜。

70才を過ぎた作者(女性)が、20代の男性の歌に応えたもの。
どれだけ素敵な恋の歌が詠めるかを競う「艶書合」(エンショアワセ)の場で作られた。
20代の男性がおくった歌の内容は次のようなもの。
「私は人知れず貴方に思いを寄せています。
 荒磯の浦風とともに 波が寄るように、夜になったら貴方とお話ししたいのですが…」



■73 前中納言匡房(さきのちゅうなごんまさふさ、1041〜1111)
大江匡房。大江匡衡(マサヒラ)・赤染衛門(59番)夫婦の曾孫。
博学で、白川院に重用された。数多くの著書を残す。

高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ

遠くの山の 峰の桜が咲いた。
お願い、人里近い山の霞、どうか立たないでおくれ。  あの綺麗な桜が見えなく成るよぉ〜

桜と霞。春の代表的な風景を対照させた、幻想的で美しい歌。
歌会で、「遠くの山の桜を眺める」という 'お題' で歌を詠み合った時の作。
当時は、この歌のように、細かい題をつけて、風流な心と歌のワザを競った。



■74 源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん、1055?〜1129?)
大納言経信(71番)の三男。堀河天皇近習の楽人。
官位は高くないが、白川院の命で『金葉集』を選す。

憂かりける人をはつせの山おろしよ はげしかれとは祈らぬものを

心冷たいあの人が、私に心を向けてくれるようにと、私は観音様に祈ったんだ〜
あぁ〜なのに、初瀬の山の山颪(やまおろし)よ、
あの人の心がお前のように、いっそう激しく冷たくなれとは、祈らなかったんだけどぉ〜…

折角、恋の成就を観音様に祈ったのに、
相手の気持ちは一向に自分に向かないどころか、さらに冷たくなったんでしょうか〜
こういう場合は、つらいですねぇ〜。
さっさと諦めて、次の相手の物色にかかるのが一番なんですが…、
人の心、なかなかそうはたやすく変えられないものです。
心も物と同じく、『慣性の法則』が働いてますから〜。 ぷぷっ。
この歌は、私にそんなこんなを、想像遊びさせてくれる…。



■75 藤原基俊(ふじわらのもととし、1060〜1142)
右大臣藤原俊家(トシイエ)の子。
博学だが官位には恵まれなかった。晩年に出家した。

契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり

「俺に任せなさ〜いっ」って貴方が言ったから、
私は、その恵の露のような言葉を、命とも頼っていました。
あぁ〜なのに…。今年の秋も空しく過ぎていくのですね…。 (貴方は言葉だけの人?)

基俊の息子は僧侶。
興福寺で行われる法会(ほうえ)の講師に選ばれたいのに なかなか選ばれない。
基俊は、関白忠通 (←藤原忠通=76番 法性寺さん) に、息子が講師に選ばれるよう頼み事をした。
忠通は「させも草」を詠んだ歌(※)を用いて「私にまかせなさい」と基俊に伝えた。
しかし、今回も選ばれなかった。それを恨んだ歌。
※…なほ頼め しめぢが原の させも草 わが世の中に あらむ限りは
意味:私を頼りにし続けなさい。
例え貴方がしめじが原のさせも草(よもぎの葉)のように胸を焦がして思い悩むことがあっても。


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歌の意味解釈 76〜80番

76 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波  法性寺入道前関白太政大臣
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ  崇徳院
78 淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜寝ざめぬ須磨の関守     源兼昌
79 秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ  左京大夫顕輔
80 長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ   待賢門院堀河




■76 法性寺入道前関白太政大臣(ホッショウジニュウドウサキノカンパクダイジョウダイジン、1057〜1164)
藤原忠通(フジワラノタダミチ)。摂政関白 藤原忠実(タダザネ)の子。
百人一首で、最も超長い名前。いつもこの歌に関して書く時、またかぁ〜と難儀させられる。

わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波

広々とした海に舟をこぎ出して眺めてみると
雲と見間違うばかりに 沖の白波が立っています。

わた…海のこと。わたの原 ⇒ 大海原。
ひさかたの…天、空、日、月、光、に掛かる枕詞。はるかさをイメージさせる?
「わたの原」は、11番を意識したもの。「ひさかたの」は、33番でも使われている。



■77 崇徳院(すとくいん、1119〜1164、45才。75代天皇 在位 1123〜1141)
保元の乱(1156年)に敗れ、讃岐(香川県)に配流されたまま崩御。
鳥羽天皇の第一皇子。歴代天皇一覧

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

川の瀬の流れがはやくて 岩にせき止められた急流が
二つに分かれ そしてまた 一つにになるように
恋しいあの人と 今は別れていても いつか必ず再び逢って 結ばれようと思っているからね

岩にせかるる…岩にせきとめられる
崇徳さんは、12世紀の方ですので、次の2行の語呂は、1100年を省略してます。
生年・流年・没年 ⇒ 讃岐へと、「行く(19) 頃(56) 無視(64) 」され、崇徳泣く 
在位年間 ⇒ 崇徳の兄さん(23)、よい(41)おじさん。 (生没年差45)
保元の乱(ほうげんのらん):
平安時代末期の保元元年(1156年)、
崇徳上皇と後白河天皇が対立して、崇徳上皇側に後白河天皇側が奇襲を仕掛けた出来事。

この歌は、崇徳さんが保元の乱に敗れて
讃岐に流された事の恨みとも、都への郷愁ともとれます。
私は勝手に、そうだと思ってます。
でも、どの解説にも恋心を歌った歌だと書いてますので、
恋心を歌ってるのでしょう。
ただ私…、左の絵を見てから、
この歌は崇徳さんの恨み辛みの歌に違いない、
と勝手に思い込んでます。
百人一首。色んな解釈で楽しむのも おもしろいと思います。
・落語の題目『崇徳院』の要約は ⇒ コチラ



■78 源兼昌(みなもとのかねまさ、12世紀初め頃)
源俊輔(ミナモトノトシスケ)の子。

淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜寝ざめぬ須磨の関守

淡路島から渡ってくる千鳥の悲しげな鳴き声に
幾夜 目を覚ましたことだろうか 須磨の関の番人は。

季節を代表する鳥 … うぐいす(春)、ほととぎす(夏)、雁(秋)、千鳥(冬)
須磨…現在の神戸市須磨区。
須磨海岸は毎年夏、海水浴客が沢山来る。
『源氏物語』では光源氏が、
時の天皇の奥さんとの火遊びがばれて流された場所。 (全54帖の 第12帖 須磨)



■79 左京大夫顕輔(さきょうのだいふあきすけ、1090〜1155)
藤原顕輔。藤原顕季(アキスエ)の子。
和歌の家柄。六条家を盛んにした歌人。勅撰集『詞花集』がある。

秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ

秋風にたなびく雲の切れ間から もれいでて来る 秋の月の光
嗚呼 なんとクッキリと澄み切っている光だろうか〜

月の影…月の光のこと。
情景歌…恋しい・淋しい・悲しい・哀しい、ではなく、
純粋に秋の夜の澄んだ風景を歌っている。



■80 待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ、12世紀前半)
待賢門院に仕えた女性。院政期花壇の代表的女流歌人。

長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ

この髪のように いつまでも長く愛しているからね と言った貴方のお気持ちが
その言葉どおりに続くのかどうか 私には分かりません。
こうしてお逢いして別れた今朝、黒髪が乱れているように
私の気持ちも千々に乱れて 物思いに沈むばかりですわよ〜 あぁ〜

今朝は…この歌が後朝(あとざね)の歌であることを示す。
後朝…男女が共寝をした翌朝。
黒髪…平安時代、長く豊かな髪は美人の条件。
そのため男性は黒髪を美しいと褒めることが多くなる。
そこで、女性が恋人などとの思い出に重ねて、
恋を回想する場面に黒髪もしばしば登場する。
(百人一首では「黒髪」が歌われてるのはこの歌だけ)
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歌の意味解釈 81〜85番

81 ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる      後徳大寺左大臣
82 思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり      道因法師
83 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる       皇太后宮大夫俊成
84 ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞいまは恋しき  藤原清輔朝臣
85 夜もすがらもの思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり  俊恵法師




■81 後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん、1139〜1191)
藤原実定(サネサダ)。右大臣藤原公能(キンヨシ)の子。定家の従兄弟。
管弦や 今様 にも優れる。

ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる

ホトトギスが鳴いたので、その声の方に目をやると、もうその姿は無かった。
ただ、夜明けの空に有明の月が残っているだけだった〜。

ほととぎす…鳴き方は「テッペンカケタカ」と表現される。
「ほととぎすの声が、明け方の空にうっすらと残る月と共にまだ漂っている」、
この歌は、そんな美しい、初夏の朝の一瞬を捉えている。



■82 道因法師(どういんほうし、1090〜1182?)
俗名藤原敦頼(アツヨリ)。
歌道への執着が強く、逸話も多い。90才で歌合に参加したとも言われる。

思ひわびさても命はあるものを 憂きにたへぬは涙なりけり

つれない恋人のことでいくら悩んだと言っても、
それで死ぬこともなく、私はこうして生きながらえている。
それでも辛さに堪えきれず、ついつい涙がこぼれてしまうのですよ〜。

自らの意思や理性では制御できない恋心を、「命」と「涙」とを対比させて詠んだ歌。
思ひわび…「思ひわぶ」と言う動詞は、恋歌の多く用いられる心情語のひとつ。
自分につれない相手ゆえに思い悩む気持ちを表す。
「わび」仲間…「わぶぬれば〜」(20番)、「恨みわび〜」(65番)。



■83 皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり、1114〜1204)
藤原俊成。俊成は、しゅんぜい、とも言う。藤原定家の父。
余情・幽玄をを唱える。勅撰集『千載集』の撰者。歌学書に『古来風体抄』がある。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる

この世の中には、辛さから逃れる道など無いものだ。
ああ〜、いちずに思いつめて入った山の奥にも、悲しげに鳴く鹿の声が聞こえる。

奥山の静けさ…人里離れた奥深い山中は、仏道修行に相応しく、孤独な静けさをたたえている。
そうした所で鳴く鹿の声は、聞く者の心をいっそう孤独にさせる。
鹿の声で動かされた心情を歌ってる作として他に、猿丸太夫の歌がある(5番)。



■84 藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん、1104〜1177)
藤原顕輔(79番)の子。歌学に優れ、当時の歌壇の第一人者となる。
歌学書に『袋草子』がある。

ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞいまは恋しき

この先、生きながらえるなら、
辛いと感じているこの頃のこともまた、懐かしく思い出されることだろう。
辛いと思って過ごした昔の日々も、今では恋しく思われることだから〜。

清輔は、顕輔15歳の時の子。その為かどうか、父からは愛されず疎まれ、親子は不和だったという。
この歌は、悩み続けた父との関係を背景に、清輔36才頃、詠んだとされる。
清輔の切々たる感慨が行間に滲む。
父との関係では愛情薄い青春時代を送ったが、その父との相克を通して六条家を継ぐことになる。
父への対抗心が父をしのぐバネとなり清輔を支えたのかも知れない。



■85 俊恵法師(しゅんえほうし、1113〜1191)
源俊頼(74番)の子。 鴨長明 の和歌の師。
自宅の歌林苑で、歌合、歌会、を毎月開催する。

夜もすがらもの思ふころは明けやらで 閨のひまさへつれなかりけり

ひと晩中、訪ねてこない恋人のことを思っていると、時がたつのが遅いものだ。
寝室の戸の隙間からは、なかなか朝日が差し込まず、その隙間にさえ薄情に思えてきます…。

「恋人が来てくれないので、寝室の戸の隙間に八つ当たり?」この歌は、そういう感じの歌。
早くこの辛い時間が過ぎて朝になって欲しい。
すがる思いで戸の隙間からの朝のひかりを待つ切ない心。
作者が女性の立場になって恋を詠んだ「歌合」の時の歌。
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歌の意味解釈 86〜90番

86 なげけとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな     西行法師
87 むらさめの露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ    寂蓮法師
88 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき  皇嘉門院別当
89 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ることの弱りもぞする    式子内親王
90 見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず   慇富門院大輔




■86 西行法師(さいぎょうほうし、1118〜1190)
佐藤義清(のりきよ)。北面の武士だったが出家。
平安時代末期の代表的歌人。

なげけとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな

嘆き悲しめと月が私に物思いをさせているのだろうか。
…いや、そうではない。
そうではないのだが、そうとでも思いたくなるほど、
月にかこつけるようにして、涙が流れてしまうのです。

嘆けとて…嘆けと言って
月やは物を思はする…月が(私に)物思いをさせるのだろうか、いやそんなはずはないのに
かこち顔…(月の)せいにするように



■87 寂蓮法師(じゃくれんほうし、1139?〜1202)
『新古今和歌集』の撰者の一人。

むらさめの露もまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕ぐれ

にわか雨のしずくがまだ乾かずにとどまって輝いている針葉樹の葉。
その葉に谷間から霧が湧き上がってくる。
嗚呼、秋の夕暮れの光景だなぁ〜。

まき…針葉樹。杉や檜。槇?。
歌の時代的特徴:
平安時代半ばごろまでは、紅葉なら錦、草木の露なら白玉(真珠)と、
自然の物を何かに例えるのが盛んだった。
平安時代後期から鎌倉時代になると、この歌のように見たままに自然を描写しはじめた。
雨の名前:
春雨  (はるさめ) … やわらかな春の雨
五月雨 (さみだれ) … 梅雨の長雨
村雨  (むらさめ) … 秋の訪れを告げるにわか雨。夏の通り雨をさすこともある。
時雨  (しぐれ)  … 晩秋から初冬にかけて、降ったりやんだりする雨




■88 皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう、生没年未詳)
歌合などで活躍。

難波江の芦のかりねのひとよゆゑ みをつくしてや恋ひわたるべき

難波の入り江の蘆を刈ったあとの一節のように 短い仮寝の一夜だけのために、
難波江にある「澪標(みおつくし)」でもあるまいに、
私は、身を尽くして、一生、恋することになるのでしょうか〜。

難波江…大阪湾の入り江。蘆の名所。
みおつくし…「澪標(みおつくし)」と「身を尽くし」を掛けている。
恋ひわたるべき…恋し続けることになるのだろうか。「わたる」は、「〜し続ける」の意。



■89 式子内親王(しきしないしんのう、1153?〜1201)
後白河天皇の娘。賀茂の斎院(コメントNo.1 参照)をつとめた。
『新古今和歌集』を代表する歌人。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ることの弱りもぞする

私の命よ、絶えるなら絶えてしまうがいい。
このまま生きながらえたとしても、
恋心を隠し通す気力も薄れてしまうことでしょうから。

式子内親王は若い十年余りの時期を賀茂神社の神に仕える斎院として過ごした。
その後も独身で暮らし、兄の以仁王(もちひとおう)が
平家追討の兵を挙げて敗死するなど、激動の人生だった。
娘らしい華やかな青春とは無縁の内親王の生涯に、残されたこの一首は、
内親王の内に秘めていた気持ちの激しさか。
内親王の恋の相手は、内親王に和歌の指導をしていた藤原俊成の子、藤原定家だという説がある。
死後、定家が内親王の墓に葛(かずら)となって巻き付いたという定家葛は謡曲になっている。
二人の間に歌を通じての交流があったことからこの説があるが、事実の程は定かではないとのこと。



■90 慇富門院大輔(いんぶもんいんのたいふ、生没年未詳)
平安時代の末、歌合などで活躍。

見せばやな雄島のあまの袖だにも 濡れにぞ濡れし色はかはらず

ああ、あの人に見せたいものです。
雄島の漁師の袖でさえ、どれほど波しぶきに濡れに濡れようとも、色は変わらないというのに、
私の袖は涙で、もうすっかり色が変わってしまっている。

雄島…宮城県松島にある島。松島は松尾芭蕉らにその景色の美しさが詠まれている。
あま…海人。漁師のこと。
「区切れ」…89番「玉の緒よ」や、90番「見せばやな」のように、第1句で歌のリズムが切れること。
五七五七七の短歌で、最初の句が区切れに成ると、出だしの強い印象的な歌になる。
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歌の意味解釈 91〜95番

91 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかも寝む 後京極摂政前太政大臣
92 わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし    二条院讃岐
93 世の中は常にもがもな渚こく あまの小舟の綱手かなしも     鎌倉右大臣
94 み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり      参議雅経
95 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみぞめの袖  前大僧正慈円




■91 後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん、1169〜1206)
藤原義経(ヨシツネ)。関白 兼実(カネザネ)の次男。
『新古今集』の仮名手本序を執筆。家集に『秋篠月清集』(アキシノゲッセイシュウ)がある。

きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかも寝む

コオロギの鳴く 霜のおりる寒い夜。
私は むしろの上に 衣の片方の袖を敷いて 一人寂しく寝るのであろうか〜。
(あぁ〜心が寒い〜)

きりぎりす…コオロギのこと。
むしろ…藁(ワラ)菅(スゲ)などで編んだ粗末な敷物。
「さ」は接頭語。 掛詞…寒し⇔さむしろ



■92 二条院讃岐(にじょういんのさぬき、1141?〜1217?)
源三位頼政(ゲンサンミヨリマサ)の娘。平安時代末、歌合(ウタアワセ)などで活躍。
後鳥羽上皇 の中宮 宜秋門院任子(ギシュウモンインニンシ)に仕える。

わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾くまもなし

私の袖は 潮が引いた時にさえ 海に隠れて 見える事のない沖の石のように、
人様は知らないでしょうが 涙に濡れて 乾く間もないのよ。 (しくしく…)

「沖の石の讃岐」…この歌で好評を博し、二条院讃岐は 「沖の石の讃岐」 と呼ばれた。
沖の石、人こそ知らね…作者の秘めた思いを具象化。
ここで「人」は、世間一般の人とも 恋する相手とも イメージできる。



■93 鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん、1192〜1219)
源実朝(ミナモトノサネトモ)。頼朝の三男。鎌倉幕府の三代将軍。
甥の公暁(クギョウ)に鶴岡八幡宮で暗殺される。
家集に『金塊和歌集』(コンカイワカシュウ)がある。

世の中は常にもがもな渚こく あまの小舟の綱手かなしも

あぁ、この世は永遠に変わらないものであって欲しいものだ。
渚を漕いでゆく漁師の小舟が 陸から綱で引かれるさまは、なんとも愛おしいなぁ〜。

権謀術数の渦中に在った人 ならではの歌。作者が日頃目にした鎌倉の海岸風景からの歌?
27才で生涯を終えた作者の歌として読むと、実に「かなしも〜」。
がも…実現することの難しそうな事柄についての願望。(「かも」に濁点?)
な…詠嘆の終助詞。
綱手…舟の先に付けて、陸から舟を引くための綱。
かなし…心を揺り動かされるような痛切な感情。悲哀だけの意味には限定されない。
も…これも詠嘆の終助詞。



■94 参議雅経(さんぎまさつね、1170〜1221)
藤原雅経。『新古今和歌集』の選者の一人。

み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり

吉野の山の秋風が 夜がふけて吹きわたっている。
その昔の都であったこの里は一層寒く、寒々と衣を打つ音が聞こえてくるのだなぁ。

砧(きぬた)…着物の布地を 柔らかくしたり艶出しするため 木槌でたたく時に使った 木や石の台。
衣うつ…衣を打つのは女性の夜なべの作業。
この音が聞こえるほどの静けさが、昔の繁栄と照らし合わせると寂しさを誘う。



■95 前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん、1155〜1225)
関白 藤原忠通(76番、法性寺入道前関白太政大臣)の子。
11才で出家。四度、天台座主になる。 
史論『愚菅抄』(グカンショウ)の作者。

おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみぞめの袖

身の程もわきまえない事ですが、つらいこの世を生きる人々に、覆い掛けましょう。
この比叡の山に住み初めたばかりの私の この墨染めの袖を。

杣山(そまやま)…寺社や宮殿用に植林した材木を切り出す山。ここでは延暦寺のある比叡山。
すみぞめ(掛詞 カケコトバ)…住み初め & 墨染め。
この歌は、伝道大師(←最澄?)の
「阿耨多羅 三藐 三 菩提 の仏達、わが立つ杣に冥加(ミョウガ)あらせたまへ」を踏まえた歌。
(一切の真理を悟った御仏達よ。私が入り立つこの杣山に加護をお与え下さい)

人の上に立つ自覚と使命感を力強く歌った歌で、百人一首の中では異色。
慈円は、父の藤原忠通、兄の九条兼実、共に関白、という政治の名門。
平安時代末期の動乱の世に、11才で仏の道を志した。
「おほけなく」には謙遜と強い決意が伺える。

(関連記述)
比叡山は天台宗の本山。最澄(767〜822、55才)が開いた。
高野山は真言宗の本山。空海(774〜835、64才)が開いた。
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