歌の意味解釈 46〜50番

46 由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行方も知らぬ恋のみちかな    曾禰好忠
47 八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり  恵慶法師
48 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな  源重之
49 みかきもり衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ 大中臣能宣朝臣
50 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな    藤原義孝




■46 曾禰好忠(そねのよしただ、10世紀後半)
丹後の国の役人。逸話の多い歌人。曾丹後とか曾丹と呼ばれる。

由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行方も知らぬ恋のみちかな

由良の瀬戸を漕ぎ渡って行く舟人が かじを失い 行く先も分からず漂うように、
私の恋の行方も ひどく たよりないものだなぁ〜

由良のと…丹後の国、現在の京都府宮津市の由良川の河口。
かぢ…櫓(ろ)や櫂(かい)などの操船に用いる道具の総称。舵(かじ)ではない。



■47 恵慶法師(えぎょうほうし、10世紀後半)
播磨の国(兵庫県)の講師(国分寺の僧侶)? 当時の一流歌人と親交があった。

八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり

幾重にも つる草が生い茂った邸。
今では だれ一人訪ねて来ることもない そんな寂しい邸にも、
秋だけは忘れずにやって来るのだなぁ〜。

八重…幾重にも。 葎(むぐら)…つる性の雑草の総称。
八重むぐら…邸宅の荒廃振りを描写する場合に象徴的に用いられる。



■48 源重之(みなもとのしげゆき、?〜1000)
清和天皇の曾孫。 地方の役人を歴任し、旅を好んだ。陸奥で没。

風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな

風が激しくて 岩に波が打ちあたり 自分一人で砕け散っていくように
私だけが 心も砕けるばかりに 貴方を思う このごろです

風をいたみ…風が激しいので。 
 今の言葉での「いたく感動しました〜」の「いた」グループでしょう〜。
」の繰り返し…「いた」 「な」 「おのれの」。
この繰り返しが印象的で、
岩にあたって砕ける波の 力強さをイメージさせ、歌に迫力が生まれている。



■49 大中臣能宣朝臣(おおなかとみのよしのぶあそん、921〜991)
神官の家柄。神事を司る。

みかきもり衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ

御垣守である衛士 の焚くかがり火が 夜 燃えては 昼 消えているように、
私も 夜は情熱の炎が燃え 昼はわが身も消えたようになります。
そんなこんなで 苦しい恋の物思いに悩むばかりですわぁ〜

御垣守…宮中の門を守る兵士。 
衛士(えじ)のたく火の…「衛士」は諸国から交替で集められる兵士。
夜はかがり火を焚いて宮中の諸門を守ることを職務の一つとしていた。



■50 藤原義孝(ふじわらのよしたか、954〜974)
兼徳公(45番)の子。やまい(天然痘)のため、21才の若さで死去。

君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな

貴方と逢うためになら たとえ捨てても惜しくはないと思っていた この命。
逢瀬を遂げた今となっては、少しでも長く生きたいと思うようになりました。

後朝(あとざね)の歌…恋人と逢って帰った翌朝、恋人に贈る歌。
作者が21才の若さで病没したと知って、この歌を味わうと、一層深みが増します。


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歌の意味解釈 51〜55番

51 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原実方朝臣
52 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣
53 なげきつつひとりぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る 右大将道綱母
54 わすれじの行末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな    儀同三司母
55 滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ    大納言公任




■51 藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん、?〜998)
清少納言(62番)と親しかった。時の宮廷の花形の一人。
舞や和歌に優れた風流人。陸奥守に左遷され、任地で没。

かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを

こんなに恋い慕っているとさえ、貴方に言うことができません。 (第1、2句)
伊吹山のさしも草のお灸ではないですが、この燃えるような私の心など、 (第2〜4句)
貴方はよもやご存じないでしょうねぇ〜。 (第4、5句)

かくとだに…こんなふうに
えやはいぶきの…「え」は、否定反語の表現。ここでは「えや」と呼称して不可能の意味を表す。
アト、「言ふ」と「伊吹」の「いふ」を掛けた掛詞。
前には、〜なんだけど言うに言えない。後には、伊吹山の〜。となる。
さしも草…よもぎの異名。お灸のもぐさの材料。
さしも知らじな…「さ」は指示の副詞。「し」「も」は共に強意を表す。「な」は詠嘆。
⇒ この(私の)思いを 'よもや' ご存じないでしょう、なぁ〜。
伊吹山…美濃(岐阜県)と近江(滋賀県)の国境にある山。さしも草で名高い。



■52 藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん、972〜994)
藤原為光(タメミツ)の子。
和歌の才能に恵まれ、容姿に優れた貴公子、だったが、23才で早世。

明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな

夜が明けると、やがて日が暮れて、またお逢いできると分かっているけど…、
やはり恨めしいのは、貴方と別れて帰らなければならない、明け方ですよ〜。

夜が明けかける頃から朝までの呼び方の移り変わり:
暁(アカツキ)   ⇒  夜明け前のまだ暗い頃  (30番)
東雲(シノノメ)  ⇒  暁からすこし明け方に近づきながらも、まだ明けやらぬ頃  (なし)
曙(アケボノ)  ⇒  東雲からようやく空が明るんできた頃  (なし)
朝ぼらけ    ⇒  曙よりさらに明るくなった頃  (31,52,64番)
朝        ⇒  朝  (80番)



■53 右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは、937?〜995)
『蜻蛉日記』の作者。藤原道綱の母。藤原倫寧(トモヤス)の娘。
藤原兼家の第二夫人となり、藤原道綱を生む。

なげきつつひとりぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る

貴方が来ないのを嘆きながら、ひとりで寝る夜。
その夜が明けるまでの時間がどれほど長く感じられるか、貴方はご存じないのでしょうね。

明くるまは…夜が明けるまでの時間。
この歌は、俊恵法師が女性の気持ちを読んだ歌(85番)とよく似ている。
85番は、寝室の障子(?)の隙間に八つ当たりしてた。
53番は、相手の男に恨めしさをぶつけている。
共に、夜、ひとり、好きな男を待ちながら、その男が来ない寂しさ&夜明けの遅さを嘆いている。



■54 儀同三司母(ぎどうさんしのはは、?〜996)
高階成忠(タカシナナリタダ)の娘。名は貴子(タカコ)。藤原道隆の妻。
藤原伊周(コレチカ=儀同三司)、藤原隆家、&定子(テイシ=一条天皇の中宮)の母。

わすれじの行末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな

いつまでも忘れないからねと おっしゃる貴方のお気持ちが、
この先もずっと続くかどうかは私には分かりません。
ならばいっそのこと、
そう言って下さる幸せな今日という日を最後とする、私の命であって欲しいものです。

忘れじの…忘れないと言う  かたければ…難しいので
ともがな…「と」は引用の格助詞。「もがな」は願望の終助詞。



■55 大納言公任(だいなごんきんとう、966〜1041)
藤原公任。漢詩文・和歌・管弦の三才を兼ねた。
『和漢朗詠集』などの編者。

滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ

ここ大覚寺にあった滝の、水の音が聞こえなくなって随分長い年月がたってしまった。
しかし、その評判だけは、世の中に流れ伝わり、今も世に聞こえ知れわたっていますよ。

嵯峨天皇の離宮があった京都大覚寺は昔、滝の流れる池があった。
後にそこへ人々が集まって「古き滝」の題で詠んだ一首がこの歌。
「世に知れ渡る」ことを、「名」が滝の水のように「流れる」と表現し、さり気ない洒落っ気がある。
風流な集まりでは、一度聞いただけで みんなにさらりと洒落が分かる この様な歌が、愛された。
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歌の意味解釈 56〜60番

56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部
57 めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58 ありま山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門
60 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立        小式部内侍


56番 和泉式部 〜 62番 清少納言まで、
66代 一条天皇 の「皇后 藤原定子」&「中宮 藤原彰子」に使えた女官が続きます。
定子は、藤原道隆の長女。(道隆は、藤原兼家の長男)  62.清少納言のみ
彰子は、藤原道長の長女。(道長は、藤原兼家の五男)  56.和泉式部〜61.伊勢大輔まで


■56 和泉式部(いずみしきぶ、978?〜?)
大江雅致(オオエノマサムネ)の娘。小式部内侍(60番)の母。
66代 一条天皇(在位:986〜1011)の中宮、彰子に仕える。
『和泉式部日記』の作者とされる。

あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな

私の命はもうすぐに尽きてしまいます。
せめて、あの世への大切な思い出として、私の命が尽きるまでにもう一度だけ、
あなたにお逢いしたいものです。

あらざらむ…生きていないだろう
この世のほか…あの世。死後の世界。
逢ふこともがな…逢いたいものだ。「逢ふ」は夜を共に過ごす意味を含んでいる。



■57 紫式部(むらさきしきぶ、973?〜1019?)
藤原為時の娘。大弐三位(58番)の母。
66代 一条天皇(在位:986〜1011)の中宮、彰子に仕える。
『源氏物語』『紫式部日記』の作者。

めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな

久しぶりに巡り逢ってお見受けしたのが確かであったのかどうか…。
見分けが着かないうちに、あなたは慌ただしく帰ってしまいました〜。
雲の間に隠れてしまった、夜の月のように。

見しやそれとも…見たのは、そうかどうか
分かぬまに…判断がつかないうちに
〜夜半の月かな…百人一首の古い写本では「〜夜半の月影(月の光)」と成っている。
この「月」には、「友達」の意味を込めているという。
この歌は、「恋心」の歌と言うよりも、
「幼なじみの女友達とのつかの間の再会を惜しむ」歌のようです。



■58 大弐三位(だいにのさんみ、999〜?)
藤原賢子(フジワラノカタコ)。紫式部の娘。
母に続いて、66代 一条天皇の中宮 彰子に仕えた後、後冷泉天皇の乳母(メノト)となった。
( 後冷泉天皇…70代天皇。在位、1045〜1068 )

ありま山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする

有馬山に近い猪名の笹原に風が吹くと、そよそよと音がします。
そうよ、それですよ〜。風になびく笹のように頼りないのは貴方の心ですよ。
どうして、私が貴方の事を忘れたりするでしょう…。忘れたりする訳ないじゃありませんか〜。

ありま山…神戸市街地(神戸市は市街地こそ東西に長いが実際は奥が広い)を東西に長く見せる、
東西に屏風のように連なる六甲連山。
その裏側(北側)にある温泉の沢山ある山地・温泉保養地。有馬山・有馬温泉。
ゐな…猪名。猪名川に沿った平地。
いでそよ…「いで」は感動・決意・反発、などを感じたときに発する語。
「そよ」は「それよそれなのよ〜」の意味。



■59 赤染衛門(あかぞめえもん、958?〜?)
赤染時用(アカゾメノトキモチ)の娘。大江匡衡(オオエノマサヒラ)の妻。66代 一条天皇の中宮 彰子に仕える。
歴史物語『栄花物語』(エイガモノガタリ)上編の作者とも言われる。
なお、この59番歌は『馬内侍集』にもあり、作者についてはやや不確か。

やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな

(貴方が今夜いらっしゃらないと分かってたら)、ためらうことなく寝てましたのに…。
いらっしゃるのが今か今かとお待ちしてたら、夜が更けてしまって…
西の空に傾くまでの月を見たんですよ。  (もぅ〜貴方ったら〜)

やすらはで…ためらわないで
寝なましものを…寝てしまえば良かったのに
さ夜…小夜。「さ」は接頭語。



■60 小式部内侍(こしきぶのないし、1000?〜1025)
和泉式部の娘。二十代で早世。
母と同じように、66代 一条天皇の中宮 彰子に仕え、藤原教通(ノリミチ)らの寵愛を受ける。

大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立

大江山を越えていく、生野の道のりは遠いんですよ〜。
だからまだ、母の居る天橋立へは行ったことがありませんし、
ましてや、母の手紙など見られる訳ないじゃないですか〜。  
(ほんとに、おっちょこちょいね、貴方って…)

大江山…天橋立に向かうときに最後に越える山。
山城と丹波を隔てる西京区の山との説もある。この場合、「おおえやま」は「大枝山」。
いく野…生野。丹波・福知山の地名。「行く」との掛詞。
ふみも見ず…「足を踏み入れたことがない」と「手紙(文)を見てない」を掛けている。
天橋立…丹後・宮津市にある名勝。日本三景のひとつ。
この歌は、 藤原定頼(64番) が、
「あなたの母親(=56番 和泉式部) に 歌の代作を頼んでも、
 返事が返ってこないのではないですか」と内侍をからかった折りに、
内侍がすかさず定頼に返した歌。
当時、内侍の歌は評判が良く、
「あれは母親に歌を作ってもらってるんだよ、きっと〜」と
からかうものが居たという。(きっと、才色兼備の女性で人気者だったのでしょう)
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歌の意味解釈 61〜65番

61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな     伊勢大輔
62 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ    清少納言
63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな  左京大夫道雅
64 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木   権中納言定頼
65 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ  相模


56番 和泉式部 〜 62番 清少納言まで、
66代 一条天皇 の「皇后 藤原定子」&「中宮 藤原彰子」に使えた女官が続きます。
定子は、藤原道隆の長女。(道隆は、藤原兼家の長男)  62.清少納言のみ
彰子は、藤原道長の長女。(道長は、藤原兼家の五男)  56.和泉式部〜61.伊勢大輔まで


■61 伊勢大輔(いせのたいふ、11世紀前半の人)
伊勢の祭主 大中臣輔親(スケチカ)の娘。大中臣能臣(49番)の孫。
紫式部、和泉式部らとともに、66代 一条天皇の中宮 彰子に女房として仕えた。

いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな

昔の 奈良の都 の八重桜が、
今日は 京の都の宮中で ひときわ美しく咲き誇っていますねぇ〜。(あぁ美しい。あぁ立派。)

八重桜…山桜の変種。花が大きく花弁が重なり合っている。
他の桜よりやや遅れて開花する。平安時代ごろ八重桜は京都では余り多くなかった。
九重…宮中のこと。 対語…いにしへ⇔けふ、奈良⇔京都、八重⇔九重
  


■62 清少納言(せいしょうなごん、966?〜1027?)
『枕草子』の作者。清原元輔(42番)の娘。清原深養父(36番)のひ孫。
66代 一条天皇皇后 定子に女房として仕えた。 
(和泉式部、紫式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔 は 一条天皇の中宮 彰子に仕えた)

夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

夜の明けないうちに鶏の鳴き真似で人を騙そうとしても そうはいきませんからね。
あの函谷関ならば いざ知らず この逢坂の関は許しませんよ。
騙そうとしても 私は決して逢いはしませんから ねぇ〜だっ。

函谷関…紀元前の中国の関所。
斉の国の孟嘗君らは兵に追われ、夜中に関所 函谷関に着く。
関所の門は夜明けまで開けない決まり。
だが、一行の一人が鶏の鳴き真似をする。
すると、門番が夜明けと間違え門を開け、孟嘗君らは無事逃げる。
中国の故事『史記』。



■63 左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ、993〜1054)
藤原道雅。藤原伊周(コレチカ)の子。関白 藤原道隆の孫。

今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな

今となっては ただもう諦めました と言うことを
せめて人づてではなく じかにお目に掛かってお話しする手だてが あって欲しいのですが…。

歌の背景…伊勢神宮に仕える斉宮だった女性との交際を背景にした歌。
斉宮は神に仕える未婚の皇女。男性との交際を厳しく禁じられていた。



■64 権中納言定頼(ごんちゅうなごさだより、995〜1045)
藤原定頼。大納言公任(55番)の子。書にも優れる。
「大江山〜」(60番)は、定頼が小式部内侍をからかって、彼女がやり返した歌。

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木

明け方 あたりがほのぼのと明るくなる頃
宇治川の川面に立ちこめていた霧がとぎれとぎれになった。
嗚呼、その絶え間のあちらこちらから点々と現れてきた川瀬川瀬の網代木よ〜。

典型的な情景歌。平安時代後期、宇治川の霧を詠んだ歌が増える。これは『源氏物語』の影響。
宇治川…京都府宇治市あたりを流れる川。霧が多い。また、宇治には貴族の別荘が多くあった。
網代…魚を捕るため竹などで編んだ仕掛け。網代木はそれを支える杭。



■65 相模(さがみ、11世紀半ばの人)
相模守大江公資(サガミノカミオオエノキンスケ)の妻。
修子内親王家に出仕。宮廷で活躍した女性歌人。

恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ

恨んで恨んで恨んだ末に もう恨む気力も無くしたわ。
流す涙で乾く間も無いほどに濡れる袖さえ 惜しいくらい。
ましてこの恋のため 世間に浮目を流し私の評判が落ちてしまうなんて 口惜しいたらありゃしない。

恨みわび…恨む気力を失って。
「〜わぶ」は動詞の連用形について、その行為を し通す気力を失う意味を表す。
恋に朽ちなむ…この恋ゆえに世間に浮名を流して朽ちてしまうだろう。
「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。
「む」は、推量の助動詞「む」の連体形で、続く「名」にかかる。
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歌の意味解釈 66〜70番

66 もろともにあはれとも思へ山桜 花よりほかに知る人もなし    大僧正行尊
67 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ   周防内侍
68 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな   三条院
69 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり       能因法師
70 さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮   良暹法師




■66 大僧正行尊(だいそうじょうぎょうそん、1055〜1135)
三条天皇のひ孫。参議 源基平(ミナモトノモトヒラ)の子。
12才で三井寺に入る。後に天台座主大僧正となる。

もろともにあはれとも思へ山桜 花よりほかに知る人もなし

山桜よ、私がお前をしみじみといとおしく思うように、
お前もまた私を同じようにいとおしく思っておくれ。
この山奥では、山桜よ、お前の他に私の心を知ってくれる友も居ないのだから。

歌の背景:大峰山にて思いがけず桜の花を見て詠んだ歌。
大峰山…奈良県吉野郡十津川の東にある。修験道の霊場。
修験道は、奈良時代に役小角(エンノオヅノ)を開祖とする仏教の一派で、
山中で修行を積み霊験を積むことを業(ワザ)とする。
三井寺周辺地図三井寺



■67 周防内侍(すおうのないし、11世紀後半)
周防守平棟仲(スオウノカミタイラノムネナカ)の娘?。
70代 御冷泉以下四代の宮廷に仕え、当時の多数の歌合に参加。

春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ

短い春の夜の夢のように、はかないつかの間の腕枕を借りたばかりに、
二人が恋人だというつまらない噂が立ったりしたら、口惜しいたらしりゃしませんわ。

歌の背景: 陰暦二月頃の月の明るい夜、二条院(中宮の彰子内親王の御簾)で、
夜通し物語などをしていた時、周防内侍と大納言藤原忠家との間で交わされた次のやりとり。
内侍…「枕が欲しいものです」。
忠家…「これを枕に」と御簾の下から’かひな(腕)’を差し入れた。
内侍…「かひなく」(つまらなく)と、とっさに詩に詠み込んだ。
忠家の遊び心か本心からかは不明とのこと。
当意即妙の既知と「春・夜・夢・手枕」などの甘美な言葉を連ねて優艶な恋の情調を漂わせる。



■68 三条院(さんじょういん、976〜1017、67代天皇 在位 1011〜1016)
冷泉天皇の第二皇子。
在位五年で譲位。翌年に没。歴代天皇一覧

心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

天皇の位を退き、その後も自分の本心に反して辛いこの世を生きながらえてしまったならば、
きっと恋しく思われるだろう。天皇として見ている今夜のこの美しい月を。

三条院が天皇を退く決意をして詠んだ歌。
叔父の藤原道長が権力を握っていたため、皇太子になってから25年間も天皇になれず、
即位して後も道長の圧力のため、わずか5年で退く。
三条院の無念の人生と月の美しさのバランスがこの歌の魅力。



■69 能因法師(のういんほうし、988〜?)
橘永ト(タチバナノナガヤス)。
歌を歌う際、歌枕に強い関心を持っていた。
漂泊・流離い(サスライ)の歌人。

嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり

嵐が吹き散らす三室の山のもみじの葉が、
麓を流れる龍田川の川面を埋めつくしている。
まるで錦のように豪華で美しい情景だなぁ〜。

龍田川の紅葉:竜田川の紅葉や、その紅葉を浮かべて流れる竜田川の光景は
万葉の時代からよく読み込まれている。
平安時代にも、「龍田と言えば紅葉」と言うイメージが固定していた。
三室の山…奈良県生駒郡斑鳩町の神南備山。紅葉の名所。
「みむろ」は神が降臨して宿る所を意味する。
竜田川…三室の山の東の麓を流れる川。大和川の支流。
大和川…奈良県および大阪府を流れ大阪湾に注ぐ、一級水系の本流。(河口は大阪市の南端)



■70 良暹法師(りょうぜんほうし、11世紀前半)
平安時代、比叡山延暦寺の僧。

さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮

寂しさに堪えかねて庵の外に出てみると、
あぁ、どこも同じように、寂しい秋の夕暮れだなぁ〜。

良暹法師は京都洛北の大原に隠棲していたらしい。この歌は大原で詠まれた歌?
この歌の「宿」…良暹法師が住んでいる草庵。
「庵」と「宿」…
「庵」(イオ、イオリ)は質素な家。 
「宿」は人が住む所、家。
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