歌の意味解釈 21〜25番

21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな   素性法師
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ     文屋康秀
23 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど   大江千里
24 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに      菅家
25 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな   三条右大臣




■21 素性法師(そせいほうし、9世紀後半〜10世紀初頭)
俗名 良岑玄利(よしみねのはるとし)。12番 僧正遍昭 の子。

いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな

「すぐ行くからね」って貴方が言ったから、
私は九月の長い夜をずっと一人で待ってたのよ。
なのに何よ〜、有明の月が見える夜明けになってしまったじゃないのよ〜。

長月…旧暦の九月。
旧暦での12ヶ月は、
  睦月、如月、弥生、 卯月、皐月、水無月、
  文月、葉月、長月、 神無月、霜月、師走 。
有明の月…夜明けごろ見えている月。見える方向は関係なし。
代詠…この歌は作者が女性になり切って詠んだ歌(代詠)。



■22 文屋康秀(ぶんやのやすひで、9世紀中頃)
37番 文屋朝康 の父。六歌仙の一人。

吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ

吹くとたちまち 秋の草木がしおれます。
あぁ〜、だから 山風を嵐と言うのでしょうね。

しをる…今の「しおれる」?。草木が色あせてぐったりする様子。
むべ〜〜らむ…「なるほどだから〜〜なんでしょうね」となる。



■23 大江千里(おおえのちさと、9世紀後半〜10世紀初頭)
大江音人(おおえのおとんど)の子。 ( 百人一首にからむ大江家の家系図
26番 中納言行平、27番 在原業平 の甥。
文章博士。家集に『句題和歌』がある。

月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど

月を見ていると 色々な思いに心が乱れ もの悲しくなります。
なぜでしょうかねぇ〜、私一人に 秋がやってきたと言うわけでもないのに。

月・星・太陽、について:
月は百人一首でしばしば詠まれています。
一方、星や太陽はほとんど詠まれていません。
百人一首には、星や太陽にちなんだ歌は無いようです。
僅かに 6番「かささぎの〜」で七夕がからむくらいでしょうか。



■24 菅家(かんけ、845〜903)
菅原道真(すがはらのみちざね)。当代きっての漢詩人。文章博士。
右大臣となるが太宰府に左遷される。太宰府で没。漢詩集『菅家文章』『菅家後集』がある。

このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに

この度の旅は、幣を捧げることも出来ません。
さしあたって、手向山のもみじの錦を幣として捧げますので、
どうぞ神様のお心のままにお受け取り下さい。

ぬさ(幣)…木綿や錦の切れ端で作った、神への捧げもの。
旅に出る際には、これを道々の道祖神に捧げて、旅の無事を祈った。
手向山…神に供え物をする山。固有名詞ではない。



■25 三条右大臣(さんじょうのうだいじん、873〜932)
藤原定方(ふじわらのさだかた)。和歌・管弦に優れる。
三条右大臣の呼び名は、京都三条に邸宅が在ったことによる。

名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな

「恋しい人に逢って共に夜を過ごす」と言う意味を持つ 「逢坂山のさねかづら」。
その長いつるを手繰るように 誰にも知れず貴方を連れ出す方法はないものだろうか…。

名にしおはば…○○と言う名前なのだから。○○と言う意味を持つのだから。
縁語…「逢坂山」の「逢」 と 「さねかづら」の「さ寝(共寝)」 が縁語になっている。
実際には相手をたぐり寄せることなど出来ないまでも、
「それほどにまで思っているんですよ」 と言う 恋の重苦しさを訴えている。


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歌の意味解釈 26〜30番

26 小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ  貞信公
27 みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ   中納言兼輔
28 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば    源宗千朝臣
29 心あてに折らばや折らむはつ霜の 置きまどはせる白菊の花    凡河内躬恒
30 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし     壬生忠岑




■26 貞信公(ていしんこう、880〜949)
藤原忠平(ふじわらのただひら)。関白藤原基経(もとつね)の四男。
兄 時平(ときひら)の死により氏長者となって政権を握る。
藤原氏全盛の基を築いた。 貞信公は諡号(しごう・おくりな)。
45 謙徳公(藤原伊尹・これただ)は、貞信公(藤原忠平)の孫
50 藤原義孝(謙徳公の子)
51 藤原実方・ 52 藤原道信・ 55 大納言公任(藤原公任) の4人は、貞信公のひ孫
定家は、貞信公の8代下の人
百人一首の中には これらの人を含め、貞信公の血統として 20人います(家系図)

小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ

小倉山の峰のもみじの葉よ。あぁ〜あなたにもし心があるならば、
もう一度、天皇のお出まし(行幸)があるまで、
どうか散らずに、そのままで待っていておくれ。

みゆき…天皇などのお出かけを言う。
天皇には「行幸」、 上皇・法皇には「御幸」の字をあてる。



■27 中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ、877〜933)
藤原兼輔。 57番 紫式部の曾祖父(3代上)。 58番 大弐三位の4代上(紫式部は大弐三位の母)。
加茂川の堤に邸宅を造営。
多くの歌人との交流があり、紀貫之らと親交があった。
平安時代の和歌の世界で活躍。

みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ

みかの原を分けるようにして、湧き出でて流れる、いづみ川ではないけれど、
いつ見たためだろうか〜?
いつ会ったためだろうか〜?
いや、本当は、会ったこともないのに、どうしてこんなに恋しいのだろう〜……

わきて…「分きて」と「湧きて」の掛詞。「いずみ(泉)」の縁語。
いつみきとてか…いつ、見たからと言ってか。いつ、会ったからと言ってか。



■28 源宗千朝臣(みなもとのむねゆきあそん、?〜939)
15番 光孝天皇(=第58代天皇、在位884〜887)の孫。
官位は低く、不遇な逸話が『大和物語り』にある。
三十六歌仙のひとり。

山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば

山中の里は、いつの季節でも寂しいけれど、
冬には、その寂しさが、いっそう身にしみて感じられます。
人の行き来も絶えてしまい、草木もすっかり枯れ果ててしまうかと、思うと…。

かれぬ…「離れぬ」と「枯れぬ」の掛詞。
「人目も離れ(人が来なくなる)、草も枯れ」の意味。



■29 凡河内躬恒(おうしこうちのみつね、9世紀後半〜10世紀初頭)
紀貫之らと『古今集』の撰者に任ぜられた。
淡路権掾(あわじごんのじょう)などを歴任した下級官人。
三十六歌仙のひとり。
権掾(ごんのじょう) ⇒ 今で言う「知事」?  ご参考)国司官位相当表

心あてに折らばや折らむはつ霜の 置きまどはせる白菊の花

あてずっぽうで折るなら折ってみようかなぁ〜…。
初霜が降りたため、庭一面が真っ白になって、
どれが花やら霜やら、見分けがつかなくなってしまっている、白菊の花を。

菊の花について:
桜や梅と並んで菊も、日本を代表する花。
着物や様々な道具類の文様にも沢山使われている。
また、菊の花にたまった露を飲んだり、露で湿らせた綿で顔を拭うと、
不老長寿が得られるとも考えられていた。
しかし菊は、奈良時代に中国から渡来した植物で、『万葉集』に菊の花は登場しない。



■30 壬生忠岑(みぶのただみね、9世紀末〜10世紀前半)
官位は低かったが、『古今集』の撰者に任ぜられ、歌人として活躍した。
三十六歌仙のひとり。

有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし

明け方の月が冷ややかに、そっけなく空に残っていたように、
あなたが冷たく見えたあの別れ以来、
夜明けほどつらく思えるものはありません。

ありあけ…有明の月。夜が明ける頃に見えている月。
 満月やそれを少し過ぎた月は、明け方西よりの空に 「有明の月」となる
 左半月やそれに近い月は、明け方南よりor天上付近に 「有明の月」となる
 晦日月やそれに近い月は、明け方東よりの空に 「有明の月」となる
つれなく…そっけない。冷淡。
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歌の意味解釈 31〜35番

31 朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪    坂上是則
32 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり  春道列樹
33 久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ   紀友則
34 たれをかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに    藤原興風
35 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける   紀貫之




■31 坂上是則(さかのうえのこれのり、9世紀末〜10世紀前半)
三十六歌仙の一人。和歌に秀でる。&蹴鞠の名手。
坂上田村麻呂の子孫。坂上田村麻呂…平安時代初期に 蝦夷(えぞ) を平定した。

朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪

ほのぼのと夜が明ける頃、明け方の月が照らしているのかと、見間違えるほどに、
吉野の里に白く降り積もっている雪よ〜

奈良県の吉野は、古くから、雪と桜の名所。
一晩で深く降り積もり、作者を驚かせたのでしょうか。
それにしても、こうして意味を振り返ってみると、
自然を擬人化している表現に興味がそそられます。
例えば、この歌の場合、「雪よ〜」と雪に魂があるかのように、その美しさを愛でている。
これが、日本人の感性なんだろうと私は思ってま〜す。( ⇒ 八百万の神)



■32 春道列樹(はるみちのつらき、?〜920)
詳しい経歴は不詳。壱岐守に任命されたが、赴任する前に没したという。

山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり

山あいを流れる川に風が作った「しがらみ」は、よく見ると…
流れることが出来ないで、貯まっている、紅葉の葉っぱであったよ〜

しがらみ…川に杭を並べて打ち、そこに木の枝などを結び付けて流れをせき止めたもの。
似てるけど違う語句 ⇒ 網代木(64番 藤原定頼の歌)
春道列樹が志賀の山を越えようとするときに、この風景に出会い詠んだ歌。
29番の「白菊」、30番の「月」、31番の「白雪」、32番の「紅葉」、33番の「桜」。
一コマずつ鮮やかな映像が切り替わるように、歌の世界が展開する。



■33 紀友則(きのとものり、?〜905?)
紀貫之(35番)の従兄弟。
『古今集』の選者の一人。しかし、『古今集』の完成前に没す。

久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ

日の光がこんなにものどかな春の日に、
そうして桜の花だけが落ち着いた気持ちもなく、慌ただしく散ってしまうのだろうか〜。

ひさかたの…天・空・光などにかかる枕詞。
のどけき…穏やかで、ゆったりとしているさま。
しづ心…静かな心。落ち着いた気持ち。
「花と日本の心」の原点の名歌。
爛漫の春を味わい楽しむと同時に、はらはらと音もなく散る花の運命に感じるはかなさ。
日本人の誰もが持つ心の動きを美しい調べで詠んだ歌。



■34 藤原興風(ふじわらのおきかぜ、9世紀後半〜10世紀初頭)
三十六歌仙の一人。
藤原浜成(ハマナリ)の曾孫。藤原浜成…日本最古の歌学書『歌経標式』を記した人。
管弦の才に秀で、笛や琵琶は天才的な腕前。琴の師匠としても名を知られていた。

たれをかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに

年老いた私は、今はもう誰を友にしたらよいのだろうか…。
相手にできそうなものと言えば、長生きで知られる高砂の松ぐらいなものだ〜。
でも、その高砂の松でさえ、昔からの友ではないのだなぁ〜。
(あぁ〜、心開いて語りかけられないよ〜…)

「誰をかも〜せむ」…誰を〜したらいいのだろうか。
高砂…兵庫県高砂市。
高砂神社には、赤松と黒松が合体した「相生の松」(アイオイノマツ)がある。
菊の花について:
桜や梅と並んで菊も、日本を代表する花。
着物や様々な道具類の文様にも沢山使われている。
また、菊の花にたまった露を飲んだり、露で湿らせた綿で顔を拭うと、
不老長寿が得られるとも考えられていた。
しかし菊は、奈良時代に中国から渡来した植物で、『万葉集』に菊の花は登場しない。



■35 紀貫之(きのつらゆき、866?〜945)
三十六歌仙の一人。当代一の歌人で、『古今集』の代表的選者。
紀友則(33番)の従兄弟。土佐守に任ぜられて『土佐日記』を著した。

人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける

貴方は、さあ〜、心変わりしておられるかどうか、私には分かりませ〜ん。
でも、昔なじみのこの里では梅の花が、
昔と変わらずに、よい香りを漂わせて咲いてますねぇ〜。 (う〜ん…、トゥレビァ〜ン)

人…一般の人ではなく、ここでは特定の人をさす。  
いさ…さあ〜どうだか〜
この歌の背景:
貫之には初瀬(奈良県櫻井市)の長谷寺へお詣りするたびに泊まる家があった。
昔馴染みの女の家。暫く振りにその家を訪れたところ、女は
「あらっ、お久しぶり〜。
 お宿はこの通り、昔のままですのに、貴方はちっとも寄って下さらない。
 私の事なんかもう忘れてしまったのでしょうねっ。」
と、おかんむりの様子。
そこで、その辺りに咲いていた梅の花を折って、この歌を詠んだ。
実際には、この家の主が男か女か明らかではない。
しかし、昔馴染みの女とした方が面白い。
平安時代には、初瀬詣 が盛んで、貫之も盛んにお詣りしたらしい。
久しく足が遠のいて居た女の事を思い出し、寄ってみたら、
拗ねて嫌味を言われたので、それを逆手にとって歌で返した、と考えると面白い。
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歌の意味解釈 36〜40番

36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ     清原深養父
37 しらつゆに風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける   文屋朝康
38 わすらるる身をば思わず誓ひてし 人のいのちの惜しくもあるかな  右近
39 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき     参議等
40 忍ぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで    平兼盛




■36 清原深養父(きよはらのふかやぶ、9世紀末〜10世紀前半)
清原元輔(41番)の父。清少納言(62番)の曾祖父。
琴の名手だったという。中古三十六歌仙のひとり。

夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ

夏の夜はとても短く、まだ宵の口だと思っていたら、すぐに夜が明けてしまう。
これではいったい、雲のどのあたりに、月は宿をとっているのだろうか〜。

夏の夜は短く、秋の夜は長い。
ひと晩中、照明が明るい現代では、そんな実感は薄い。
しかしこの歌は、夜の灯が少なく、人々が静かに月と対話していた頃を彷彿とさせます。
「宵だと思っていたのに、すぐに夜明けになった」と言うのは大袈裟だけど、
いにしえの歌人は、その誇張を楽しみました。
電気のない昔。夜の、月の光・月の形は、かなり人々の情緒を呼び起こしたのでしょう。



■37 文屋朝康(ぶんやのあさやす、9世紀後半〜10世紀初頭)
文屋康秀(22番)の子。
詳しい経歴は不明。官位には恵まれなかったよう。

しらつゆに風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける

草の葉についた美しい白露に、しきりと風が吹きすさぶ秋の野…。
その白露が 吹きすさぶ風で散っていくさまは、
まるで糸をはずした玉飾りの真珠を、この秋の野に散りばめたようだぁ〜。

「白露」は涙のたとえや、はかないものの象徴として、万葉の時代から よく用いられた歌語。
「露」はまた、しばしば「玉」に見立てられ、「白玉」と言えば「真珠」のことを言った。



■38 右近(うこん、10世紀前半の人)
右近の通称は、父の官位による。
父は、右近少将藤原季縄(ウコンノショウショウフジワラノスエナワ)。
60 醍醐天皇(在位、897〜930)の皇后 穏子(オンシ)に仕え、村上朝の歌壇で活躍する。
村上朝…62 村上天皇(在位、946〜967)

わすらるる身をば思わず誓ひてし 人のいのちの惜しくもあるかな

貴方に忘れられる私の、この身が、どうなろうとも気にしません。
それよりも、神に誓った「私との愛」を、貴方が破ったことで、
貴方に神罰が下り、貴方の命が失われるとしたら、それが残念なのですよ…。

誓ひてし…貴方が、いつまでも私を愛すると神に誓った。
人のいのちも…ここの「人」は、恋の相手のこと。
自分のことはどうでもいいと、つつましく歌い始めながら、
貴方への神の怒りが心配だと、受け取りようでは、怖い下の句。
裏切った相手への一途な愛と読むかか、
皮肉と読むか、読み手の気持ち次第なのがおもしろいです。



■39 参議等(さんぎのひとし、880〜951)
源等(みなもとのひとし)。52 嵯峨天皇(在位、809〜823)の曾孫。
丹波や山城など地方官を歴任した。

浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき

人知れず浅茅が生えている 名もなく目立ちもしない野原 ではないですが、
貴方を思うこの気持ち、忍びに忍んでも、忍びきれません。
どうしてこんなにも、貴方のことが恋しくてたまらないのでしょうか〜…。

浅茅生の…浅茅(丈の低い茅)が生えている所。「小野」の枕詞。
茅(ちがや)はアップのの2画像参照。
小野の篠原…「小」は調子を整えるための接頭語。「篠原」は、細い竹の生えている原。
なので、第1句&2句で、
「名もない細い竹や草が目立ちもせず生えている野原」と言ったような感じ?
この「第1句&2句」が「第3句」の「しのぶれど」に掛かる。
あまりて…(忍ぶに)あまりて。忍びきれなくて。
などか…どうして〜か。



■40 平兼盛(たいらのかねもり、?〜990)
58 光孝天皇(在位、884〜887。15番)の玄孫(やしゃご)。
三十六歌仙のひとり。『後撰集』の時代の代表的歌人。
『袋草紙』には赤染衛門の父とあるけれど真偽は不明。
高祖〜玄孫 の九親族 ⇒ 高祖、曽祖、祖父、父、【自分】、子、孫、曽孫、玄孫。

忍ぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで

誰にも知られまいと心に決め、耐え忍んできたのに、
とうとうこらえきれず、顔色や表情に出てしまっていたのか〜。私の恋心は
恋の物思いをしているのですかと、人が問うほどにまでになって。

ものや思ふ…「もの思ふ」は、恋の物思いをする意味。「や」は疑問の係助詞。
39番の源等の次に、40番でこの平兼盛を登場させている。テーマはどちらも「忍ぶ恋」。
源平歌合戦を意図したかのような配列。
そして、このアトには、後世に語り継がれる歌合の名勝負で、
兼盛と相対した、41番の壬生忠見と続く。
百人一首の並べ方には定家は、かなり色々な趣向を凝らしている。
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歌の意味解釈 41〜45番

41 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか   壬生忠見
42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは      清原元輔
43 あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり     権中納言敦忠
44 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし  中納言朝忠
45 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな  謙徳公




■41 壬生忠見(みぶのただみ、10世紀半ば)
任生忠岑(30番)の子。

恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか

私が恋をしているという評判が、早くも立ってしまったよ〜。
人に知られないように、秘かにあの人を思い始めたというのに…。

まだき…早くも。
この歌は、「天徳内裏歌合」の「忍ぶ恋」の題で、
平兼盛の歌(40番)と優劣を競い、負けた歌。
技巧的な兼盛の歌に対して、忠見の歌は素直に自分の思いをかみしめているよう。



■42 清原元輔(きよはらのもとすけ、908〜990)
平安時代中期の代表的歌人。
清原深養父(36番)の孫。清少納言(62番)の父。

契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは

約束したよね…、
二人して、涙で濡らした袖をしぼっては、「末の松山」を波が越さないのと同じように、
いつまでも お互いを思う気持ちが変わらないことを。

末の松山…宮城県多賀城市にある地名。
どんな大きな波でも、末の松山を越すことがないことから、次のたとえとなる。
そこを「波」が越さないとは、二人の間に心変わりがないこと。
そこを「波」が越すのは、二人の間に心変わりや浮気が生じたこと。

・宮城県多賀城市八幡 末の松山

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■43 権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ、906〜943)
藤原敦忠。左大臣時平(トキヒラ)の三男。琵琶の名手として知られた。
三十六歌仙の一人。38才で早世し、藤原道真の怨霊の仕業とされた。

あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり

貴方と逢って、共に一夜を過ごした後の この募る思いにくらべたら、
逢うまでの切ない気持ちなど、取るに足らないモノだったのだなぁ〜。

古典文学で「逢い見る」というのは、
ただ道でばったり会うとか、友達同士が約束をして落ち合う、と言うことではない。
好意を持つ男女が共に一夜を過ごすことで、たいていは男性が女性の家を訪ねた。
貴族の女性は親兄弟以外に直接姿を見せることは殆ど無かったので、
恋は、人の噂や 女性を物の隙間からこっそり覗き見る「垣間見」など、から始まった。
そこで思いを募らせ手紙の遣り取りをして、実際に「逢う」。
でもこれは、考えてみれば、当然と言えば当然なおですが、
今の出会いサイトでやっていることと基本的には何も変わっていない。
違うのは、「時間の感覚」と「情緒のあるなし」?



■44 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ、910〜966)
左大臣藤原定方(サダカタ)の子。
三十六歌仙の一人。笙の名人。三代の天皇に仕え、信任が厚かった。

逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし

もし、逢うことが絶対にないのならば、
かえって、あの人のつれなさも、わが身の切なさも恨むこともなく、
心安らかだろうに…。

なかなかに…かえって。むしろ。
なまじ逢うから、返って、あれこれ思い悩んでしまうと言う、切ない恋の歌。
しかし、気が通えば会いたくなってしまうのが、恋に落ちた人のサガですなぁ〜。(笑)



■45 謙徳公(けんとくこう、924〜972)
藤原伊尹(これただ)。 貞信公(26番)の孫。 ⇒ 系図を確認
和歌所(わかどころ)の 別当 として 梨壺の五人 を主宰。
兼徳公はし諡号(しごう・おくりな)。

あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな

貴方につれなくされ今となっては、
私のことを可哀想だと悲しんでくれそうな人が思い浮かびません。
きっと私は、一人恋い焦がれて、むなしく死んでいくのにちがいない〜。

あはれ…気の毒。かわいそう。  
思ほえで…思われないから
いたづらになる…むなしくなる ⇒ 死ぬこと。
今、この歌のような気持ちを、別れかけの相手の女性にメール送信したら、
まず十中八九「だから、アンタが嫌いになったのよ〜」って思われる凄い未練がましい歌。
しかし、実際の伊尹は、才色兼備の風流貴公子として知られ、
贅沢三昧 優雅華麗な生活を送った。  
この歌は、伊尹の余裕というか、心のお遊び?
所で、わたくし事ですが…、兼徳公という名前から、
ついつい、この歌を暗誦するたびに、思っていたものです。
「県のしごとは、得な工事だなぁ〜」 
???
失礼いたしました。~(=^‥^A アセアセ・・・ 
45番 謙徳公は、「小倉山〜」の 26番 貞信公のお孫さん です。
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