四子を四天皇へ入内させた道長

藤原道長(966〜1027、差61)は四人の娘を四天皇に入内(じゅだい)させてます(。そうして娘にやり手の女官を付ける。その女官達は知識教養という魅力を娘達に得させる。その魅力で娘は、天皇の気持ちをガッチリつかむ。『源氏物語』は紫式部が1008年頃に書き終えたとされる、王朝の色恋沙汰や人生の無常を描いた、54章に及ぶ長編物語です。

紫式部は彰子の女官です。彰子は道長の娘であり、一条天皇の夫人です。そういう背景をイメージすると、一条天皇は、紫式部から彰子へ逐次流される書き物(物語)を、夜な夜な彰子から読み聞かしてもらう面白さに、虜になってたとも想像されます。韓流ブームで毎週流された「冬ソナ」に、膨大多数の熟女の皆様方が夢中になったのと同じように・・・。

そんな事情も含めて、道長を代表格とする摂関家の権力は増大したことでしょう。この、道長や一条天皇の近辺の女性が百人一首でオンパレードするのが53番右大将道綱母あたりから 67番周防内侍あたりです。ただ、三条天皇は、一条天皇と同様に道長の娘を妃としながらも、道長に苦汁を飲まされます。その結果が三条院の68番歌とも受け取れます。「心にもあらで浮き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな」。



平安時代中期の天皇系図  中期:930年ころ〜1060年ころ 目安:61代朱雀天皇〜70代後冷泉天皇



●レベル1
長女 (彰子)を 66代 一条天皇に。
次女 (妍子)を 67代 三条天皇に。  一条天皇&三条天皇は従兄弟。
●レベル2
三女 (威子)を 68代 後一条天皇に。 後一条天皇は道長の孫。[一条天皇×彰子]の子。
六女 (嬉子)を 69代 後朱雀天皇に。 後朱雀天皇も道長の孫。[一条天皇×彰子]の子。
ですので、三女&六女 については「娘を孫にそわせて」ます。

●レベル3
70代 後冷泉天皇は、[後朱雀天皇 (孫) ×嬉子 (六女) ]の子。
71代 後三条天皇は、[後朱雀天皇 (孫) ×禎子内親王 (孫) ]の子。
ここで、禎子内親王は[三条天皇×妍子 (次女)]の子なので、道長の孫です。


 71代 後三条天皇は、父系を辿っても母系を辿っても、道長が「曾祖父のひとり」となり、道長の血を色濃く継いでます。長女 (彰子) も 次女 (妍子) も、71代 後三条天皇の祖母です。道長はおうような性格だったようですが、こと自分の血(DNA)を天皇家に馴染ませる事に関して、二重三重の安全策を施す「並々ならぬ情熱を持った人」と感じます。
 レベル2(後一条・後朱雀 兄弟)に関しては「彰子よ、でかした!」と言ったところ。所が、レベル3では「おぉ、ダンナの三条帝はもひとつだったけど、妍子に娘がいてくれてよかったよかった!」
 71代 後三条天皇は、現天皇の直系天皇のお一人ですし、平安後期に院政を始めた72代白河天皇の父親です。平安後期は、平安中期の「母系の摂関政治」から「父系の院政」にシフトした時期とも言えます。この父系の血は「平」系と結びつき「平安後期の特徴」を醸し出します。

 しかし、道長のようなことを既に道長の大先祖様がしているのですね。道長の家流は「藤原北家」。「北家」の祖は藤原房前。その房前の父、つまり藤原不比等(659〜720)がそうです。
 不比等は「北家」の房前をはじめとする「藤原四家」四兄弟の父。藤原氏の祖である鎌足の子。平城京を監視するかのような、興福寺(藤原氏の氏寺)の五重塔を建てたお方です。
 「恐るべし、藤原氏のDNA・・・」なんちゃって。

関連記事 ⇒ 「定家の孫 から 18代 遡ってみる」



百人一首の編者である定家は、藤原北家の流れを継いだ流れ、道長の子・長家が祖となる御子左家流れ、の人です。百人一首と言えば、現在も続いている冷泉家という家流がイメージされるようです。しかし定家は厳密には冷泉家の人ではありません(冷泉家流の上流の人ではあります)。冷泉家の祖は、定家の孫の冷泉為相(ためすけ)です。そもそも冷泉家は、御子左家の分家です。本家(御子左家[二条家])と他の分家(京極家)が北朝時代までに断絶したため、「百人一首=藤原定家=冷泉家」という図式となったのでしょう。


為相は、為家の息子です。
為家は、「宇都宮蓮生の娘」を夫人としています。
蓮生は、襖色紙の装飾にと定家に選歌を依頼し、小倉百人一首のきっかけを作った人物です。
ただし、為相は「蓮生の娘」との間の子ではありません。


百人一首の百歌人中 人数の多い「氏・族」ベスト3は、藤原系=34人、源系=13人、皇族=10人 です。源と聞くと「源氏と平家」という武士・武家の対立表現がイメージされます。ところが、百人一首に接していて分かったのですが、源系も平系も源流は天皇家系の血統です。これにはビックリしました。百歌人中で皇族の内訳は、天皇が8人、皇太子&内親王がそれぞれ1人です。天皇 8人のうち 1人、持統天皇は女性天皇です。


  
2/5 3/5 彰子の入内・定子の他界・道長と源氏物語 4/5 道長の暴走・式部&彰子の思い 5/5


タグ:藤原道長
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定子に仕えたのは清少納言のみ

56.和泉式部から62.清少納言まで66代一条天皇の皇后・中宮に仕える女官が7名続きます。
      
56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部
57 めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58 ありま山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門
60 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立        小式部内侍 
61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
62 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ      清少納言
   

歌番号を意識して百人一首に接していると、百人一首のこのあたりは、最も華々しく、まさに平安時代中期の国風文化・女流文学の全開を香せます。それは「摂関家としての藤原家」の全盛の時期でもあったのでしょう。
皇后は、定子。  ← 藤原道隆の長女 ( [道隆×54.儀同三司母] の娘。 道隆は道長の兄)
中宮は、彰子。  ← 藤原道長の長女
定子に仕えたのは、62.清少納言のみ。
彰子に仕えたのは、56.和泉式部、57.紫式部、58.大弐三位、
            59.赤染衛門、60.小式部内侍、61.伊勢大輔。

定子は、66代一条天皇の皇后でしたが、三人目の出産で早世してしまいます(1000年・23才)。(※)
一方、彰子(定子の11年後生)は、定子の三人目の出産の年に、定子という皇后が懐妊中でまだ健在でいるにもかかわらず、道長に強引に一条天皇に入内させられます。定子はこの出産で亡くなるのですが、彰子はこののち、一条天皇との間に二人の天皇を産みます。

百人一首と接していると、
定子に較べ、彰子に多くの女官が付いているように見えるのは、
定子の短命もさることながら、道長の影響が強いのでしょう。
「定家は道長の血を引いているけれど、道隆の血は引いていない」というのも若干関係しているかも・・・、
と考えるのも想像遊びとしては面白いです。

参考1) 道隆[道長の兄]、定子、清少納言、枕草子、が分かる ⇒ 『枕草子』は定子への鎮魂歌か?
参考2) 母性愛の彰子×野心家の道長、 随筆の枕草子×小説の源氏物語

道隆: 953〜 995、差42
道長: 966〜1027、差61
定子: 977〜1000、差23  (※)
彰子: 988〜1074、差86  女院の第二号(第一号は詮子=道隆の妹・道長の姉・一条帝の実母)
納言: 966〜1027、差61   ← 不詳データ(殆ど道長と同じ)
式部: 973〜1019、差46   ← 不詳データ

・道長の暴走、式部&彰子の思い。 (権力者の傲慢と女性の意思) 

 左YouTube、5分20秒からが面白いです。
 一条天皇 崩御の報せに接して
 道長が素早く、彰子の子(道長の孫)を
 皇太子(三条天皇の次)と決めてしまう。
 これに対し彰子は、「皇太子は
 定子の息子であるべきだ」と道長に訴える。
 彰子のこのような考えはどのようにして
 彰子の中に根付いたのか・・・。


・百人一首 百歌人中の 藤原族34歌人  南家・京家を含む


・百歌人中の 藤原族34人中  藤原北家流れ31歌人 詳細


四子を四天皇へ入内させた道長


・平安時代中期の天皇系図


天皇家直系系図  
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藤原不比等は 天智天皇の 落種

「落種」=おとしだね。 律儀に書くと 「落胤」。
ここで、「胤」という漢字は普段まずお目にかからない漢字です。
分かりやすく大きく書いてみました。 

落胤  (らくいん・おとしだね)

Wikipediaより、鎌足の系譜 抜粋 (夫人と息子にからむもののみ)
中臣鎌足(614〜669、差55)
臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。(天智天皇[=中大兄皇子]から)
生きていたころの彼を指す場合は「中臣鎌足」、
「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」、を用いる。
  正妻: 鏡王女(かがみのおおきみ) (?-683) ( 最初、中大兄皇子妃であった
  妻  : 車持与志古娘  ( くるまもちの よしこの いらつめ )
    長男: 定恵(俗名、真人) (644-665) (僧侶)
    次男: 不比等(659-720、61) (『興福寺縁起』では、不比等の母は鏡王女とされている)

同じくWikipediaより、不比等の概要 抜粋
 藤原不比等は、天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。 不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味である。

 万葉集 巻1−13  天智天皇
香具山は 畝傍雄々しと 耳成と 相争ひき  神代より かくにあるらし
古も しかにあれこそ  うつせみも 妻を争ふらしき
原文:
高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎  神代従 如此尓有良之
古昔母 然尓有許曽  虚蝉毛 嬬乎相挌良思吉

4時半は、7時半雄々しと、12時と、・・・

上右のgooglemapで、
右下あたりの緑域が「香具山」。
左下角が「畝傍山」。
上部中程に見える丸い緑域が「耳成山」。
「香具山」を四時半方向の山とすると、
「畝傍山」は七時半方向の山。
「耳成山」は十二時方向の山。
この三つの山(大和三山)は、
一辺が2.5km〜3.2kmの三角形を形成する。
この三山を四時半・七時半・零時の方向辺りに
見たであろう様な所に、藤原京(694〜710年)
の中心が在ったのでしょう。
この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化。
白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。
大官大寺や薬師寺(右画像は薬師寺東塔)などが造営された。
白鳳文化を代表するものとして興福寺仏頭などがある。
「香具山」は百人一首2番でも歌われている。
41代持統天皇(38代天智天皇の娘。40代天武天皇の皇后)の歌。

(蛇足) 冒頭 「万葉集 巻1−13」 の わたし的解釈:
香具山を 額田王(ぬかたのおおきみ・)、
畝傍山を 大海人皇子・のちの40.天武天皇・38.天智天皇の弟、
耳成山を なぞの女、 としました。  

神代の昔から、いい男をめぐり女が取り合いするものだ。
私の近辺でも、額田王は、「大海人皇子が素敵だ」と言って、
あの娘と、妻の座を争っている。 (額田王ちゃん、あの娘は大海人皇子にあげて、私の所においでよ・・・)



小倉百人一首を眺めていると、私の場合、「定家のひとつの歌集」というイメージがあるので、定家の「きままさ」を、こちらも「きままに味わう・楽しむ」という面白さを感じています。そして、天智天皇という人物、上のYouTubeのような長歌を詠う方ですので、「御落胤」の一人や二人、居て当然と考えると面白いです。

定家は 『 百人秀歌 』 に次のような言葉を書き留めてもいますし。
「名誉の人 秀逸の人 皆これを漏らす 用捨は心にあり 自他の傍観あるべからざるか」

小倉百人一首は天皇の命令としての国家事業的歌集「勅撰歌集」ではないですから、私としては、定家の属した「藤原北家」という家流を強くイメージしていますし、百首 中盤の女性歌人のオンパレードで、その背後に平安時代中期の代表的人物「藤原道長」も意識されます。

そんなことで最近までは、「四人の娘を四天皇に入内させた」藤原道長と、「乙巳の変で中大兄皇子を支え、藤原氏の氏祖となる」中臣鎌足(死後、藤原鎌足となる)に関心を持っていたのですが、最近は、鎌足の息子(次男)であり、藤原四家の四兄弟を生んだ「藤原不比等」という人物にも興味が湧いてきました。

・Wikipedia資料
藤原南家 藤原武智麻呂(むちまろ)  680〜737
藤原北家 藤原房前  (ふささき)  681〜737
藤原式家 藤原宇合  (うまかい)  694〜737
藤原京家 藤原麻呂  (まろ)    695〜737

不比等の息子、武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は異母兄弟。
不比等の娘、宮子(聖武天皇の母)と光明子(聖武皇后)は、異母姉妹。
四子政権時代には
1 律令財政が確立された。
2 京や畿内に惣管(そうかん・行政監察)、京以西の道(どう)ごとに節度使、を設置し治安維持を強化。
3 対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。
   (遣隋使は600年から。遣唐使は630年から。遣唐使終了宣言は894年)
 3から伺われるのは、半島との太いつながりです。朝鮮半島や中国大陸のほうに意識が集中していたのでしょうね。今で言う北海道は、当時の大和人には意識の及ぶところではなかったのでしょう。当時の「西域と東域」の「文化的引力」の違いでしょうか。四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死し、藤原四子政権は終ります。
 旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、・・・で、藤原四兄弟は奈良時代の人ですが、古代は当然ながら、日本と半島に国境というようなイメージなど薄く、その時々の情勢で自在に統治域が変わっていただろうし、お互いの往き来も自然な形で行われていたのだと思われます。日本の古代国家(大和王朝)の成立は、先住系の縄文人・渡来系の弥生人、が融合し発展した集落の内、もっとも勢力を強めた地域(近畿地方)を拠点として成立した国家(当時としての大きな勢力)なのだろうと、私は思っています。



「四人の娘を四天皇に入内させる」という執念とも言えるような道長ですが、
藤原不比等も、さすが鎌足の子&四兄弟の父親だけあってなかなかの人物です。
鎌足は死後「藤原」姓を天智天皇から受けたので、実質的な藤原氏の祖は不比等とも言えます。
不比等はまた、「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では
天智天皇の「御落胤」(ごらくいん・おとしだね)とあるようですし・・・。
不比等が次男(鎌足の長男の存在が不比等に較べて薄い)というのも、「落胤説」に拍車を掛けます。

藤原不比等: 659〜 720、差61
藤原道長 : 966〜1027、差61


不比等の子の内、
四兄弟が「藤原四家」の祖。
二人の娘が、二天皇(42.文武天皇、45.聖武天皇)の夫人。
特に、聖武天皇の夫人は「光明子」。
聖武天皇を仏教に深く帰依させたとも言える女性です。

鎌足と四兄弟にかくれて幾分目立たないけれど、
不比等という人も、かなり有能な政治家だったようです。
奈良の平城京を見下ろすかのような興福寺(藤原氏の氏寺)
の開基は藤原不比等。
( ただし、興福寺の創建年自体は、天智天皇8年[669年不比等生誕の10年後] と成ってはいる )

・奈良時代の天皇                            ・平安時代中期の天皇
  


・百人一首 百歌人中の 藤原族34歌人  南家・京家を含む


・百歌人中の 藤原族34人中  藤原北家流れ31歌人 詳細



不比等と道長の比較
・不比等の場合


・道長の場合 四子を四天皇へ入内させた道長


平安時代中期の天皇系図


天皇家直系系図


飛鳥時代以降の天皇の居住地(日本の首都?)

以下は、wikipedia 「天皇居住地の変遷」 冒頭部 抜粋

歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。
古墳時代以降は、皇居のための宮殿(御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、
首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

宮殿や貴族の邸宅であっても、
奈良時代までは基本的に掘立柱建築だったため、建物の耐用年数が短かった。
同じ掘立柱建築である伊勢神宮の遷宮は20年に1回である。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、
政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。
中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京・平城京・平安京などでは、
計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、
地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、
いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。


●平城京を考える
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html
上サイトの興味深いところ一部抜粋(以下)。
ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。・・・

1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD
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