定家は御子左家の流れ

■御子左家(みこひだりけ)  ← 藤原長家(鎌足の下12代)の一流れ
藤原長家(北家・藤原道長の6男)を祖とする藤原氏の流。
御子左の由来は、
長家が醍醐天皇の皇子兼明親王の御子左第を伝領し、御子左民部卿と呼ばれたことによる。
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて著名な歌人である藤原俊成・定家父子が現れてから、
歌道の家として確立された。以後、御子左家は長く歌壇に君臨した。
定家の子為家は蹴鞠の家としても知られ、その流れは御子左流と称された。
鎌倉時代後期に為家の3人の子(定家の孫)が家領の相続をめぐって争い、
嫡流の御子左家(二条家)、庶流の京極家、冷泉家に分かれた。
二条家・京極家の家系は南北朝時代までに断絶し、冷泉家のみが残っている。

長家(1005〜1064、59才) ⇒ 道家、【忠家】、祐家、證明、…
忠家(1033〜1091、58才) ⇒ 【俊忠】、顕良、家光、基忠、忠円、祐覚、…
俊忠(1073〜1123、50才) ⇒ 忠成、【俊成】、俊海(寂蓮の実父)、…
俊成(1114〜1204、90才) ⇒ 成家 【定家】 覚禅 覚長 静快 定長(寂蓮:養子=俊成ノ弟ノ子)
定家(1162〜1241、79才) ⇒ 光家、【為家】、…
為家(1198〜1275、77才) ⇒ 二条為氏、京極為教、【冷泉為相】、冷泉為守
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定家は藤原北家の流れ

■藤原四家(鎌足の孫)  ← 藤原不比等(鎌足の子)  ← 鎌足
藤原四兄弟・藤原四子 … 奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子。
藤原南家: 藤原武智麻呂(むちまろ、680〜737)
藤原北家: 藤原房前(ふささき、681〜737)
藤原式家: 藤原宇合(うまかい、694〜737)
藤原京家: 藤原麻呂(まろ、695〜737)
四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死。
それぞれの家に栄枯盛衰はあったものの、
その後の政治や学問、文化に大きな足跡を残す。


■藤原北家(ふじわらほっけ)  ← 藤原房前(鎌足の孫)の一流れ
藤原房前(右大臣藤原不比等の次男)を祖とする家系。藤原四家の一つ。
藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことが名の由来。
藤原四家の中では遅く花開いた一族だが、
結果として藤原四家の中でも最も根を拡げることになった一族。
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定家は冷泉家の人?

定家は冷泉家の祖の先祖ではあるけれど、冷泉家の人ではない。
と言うのが私の結論になりました。

冷泉家の祖=冷泉為相(ためすけ) ← 定家の孫。


百人一首の時代幅ってどれくらいなのかなぁ〜

そうだ、歴史年表を作ってみよう〜

ほう〜、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、かぁ〜  
  それぞれがどんな時代なのか歴史に疎い私には皆目分からなかった〜

それぞれの時代にどの人がはまるんだろう〜

全部入れると大変だから、各時代に代表的な一人を入れてみよう〜

平安には、紫式部を入れたい

紫式部を入れるとすると、あの人も入れたいこの人も入れたいと成った

結局、藤原道長を入れざるを得なくなった。

そうそう、定家は道長の子孫だし、紫式部は道長と血統が同じだという。

藤原氏っていったいどんな家系ナンだぁ〜  
  北家があるということはほかにも系統があるのか?
  冷泉家って いったい いつ出来たんだ?

たどりついたのが ⇒ 中臣鎌足

「中大兄皇子が天智天皇になって、鎌足の死後、藤原姓を鎌足に授けた」とある。

あぁ〜、それで、百人一首の1番目が、
およそ天皇の歌とは思えない内容の歌で、しかも、その歌人が天智天皇なんだ。
定家お得意の
「詠み人知らず」歌を「農(労働)を尊ぶ歌」の意を尊重して天智天皇の歌としたのだろう
と更に勝手に納得したのでした〜。


との私なりの結論に至ったのでした。
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藤原定家の生没年の覚え方

百人一首編者 藤原定家(鎌倉初期の公家・歌人)の生没年は、1162〜1241、差79年。

定家は和歌の才長けた好色男?
色に(千162年) 強い(千241年)。 泣く泣く(生没年差79) 亡くなる。

◆鎌倉初期の公家・歌人。

諱(イミナ?)は「ていか」と有職読みされることが多い。
道長の来孫(5代下。らいそん。ひ孫の孫。やしゃごの子。きしゃご)、御子左家の出身。
父は藤原俊成で、母は美福門院加賀(藤原親忠女、?〜1193年)。
官位は正二位権中納言(1232年(寛喜4年))に昇った。
九条家に近く、土御門通親らと政治的には激しく対立した。
官位から京極中納言と呼ばれた。
法名は明静(みょうじょう)。

◆経歴

平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道の家としての地位を不動にした。
子に藤原為家、
孫に二条為氏・京極為教・冷泉為相らがいる。
その直系子孫は絶えたが、分家の一つであった冷泉家は現在も続いている。
ブログ内関連記事 ⇒ 定家の孫から18代遡ってみると…

代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。
俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、
後世の歌に極めて大きな影響を残した。

二つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。
ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。
歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、
本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。
歌集に『拾遺愚草』がある。

18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』を残した。
『明月記』は、2000年(平成12年)、国宝に指定された。
『明月記』には、おうし座で超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、
天文学上、重要な資料となっている。

日記は他に、1201年後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した『熊野御幸記』(国宝)。
また、宇都宮頼綱に依頼され撰じた「小倉百人一首」が有名である。
『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった。
この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった。
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定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる

百人一首と言えば冷泉家がイメージされるようです。
でも調べてみると、定家は冷泉家の祖ではありません。
冷泉家の祖は定家の孫(為相・ためすけ 相をスケと読むようです 涙。。)です。

ということで、
為相から、藤原鎌足まで血統を逆にたどってみると次のようになります。
本人又は近しい身内として、百首の中に含まれている人を5首ほど添記しました。

下18.冷泉為相  (冷泉家の祖)

下17.藤原為家

下16.藤原定家   97.権中納言定家    「来ぬ人を〜

下15.藤原俊成   83.皇太后宮俊成    「世の中よ〜

下14.藤原俊忠

下13.藤原忠家

下12.藤原長家  (御子左家の祖)

下11.藤原道長   54.儀同三司母は「道長の義理の姉」  「わすれじの〜

下10.藤原兼家   53.右大将道綱母は「兼家の妻」 道長と道綱は異母兄弟  「なげきつつ〜

下09.藤原師輔

下08.藤原忠平   26.貞信公(本人)   「小倉山〜

下07.藤原基経
↑                         下11.道長 の 「4子4天皇に入内」 の手本  下01.不比等
下06.藤原長良

下05.藤原冬嗣

下04.藤原内麻呂

下03.藤原真楯

下02.藤原房前  (藤原北家の祖)

下01.藤原不比等

藤原鎌足(藤原氏の祖) ← 中臣鎌足が天智天皇より藤原姓を賜る。


定家が天智天皇を1番に持ってきたわけ。それは…

定家は一人秘かに、
藤原氏の氏祖をもたらした天智天皇
(天皇になる前は中大兄皇子)に敬意を表した・・・?。


さらに、天智天皇の歌は
およそ天皇の暮らしぶりから思い浮かぶ歌でも無さそうです。

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ


定家は、
自らの家系「藤原」の氏祖をもたらした天智天皇を称え、
そして、
当時の主産業である農耕を称える気持ちを込め、
詠み人知らずの歌を、
天智天皇の歌として最古の歌とした。

私は、そういうふうに想像遊びをしています。
百人一首のまた一つの遊び方。
想像遊びです。

ただし、この想像遊びは「2010年5月」に華々しく砕け散りました。
天智天皇の「秋の田の・・・」は福岡で詠んだ歌かも

そして、下記の
「 1番歌は聖徳太子でも良かったんじゃない? 」 も「2010年5月」に華々しく砕け散りました。
聖徳太子の歌はそんなに多くはなく、万葉集には下記の1首だけ在るのだそうです。
また、厩戸皇子は実在しただろうけれど、聖徳太子の実在は危ういとのこと。
今や初等中等教育では聖徳太子とは言わず厩戸皇子と言うのだそうで・・・。

聖徳太子の歌とされている、「万葉集」の中での唯一の歌。
家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ   万葉集 巻3−415
いえ  いも て      たび こ     たびと


さらにこの歌の雰囲気は、定家が「小倉山荘色紙和歌に」と選ぶにはミスマッチのようでもありますから。


このシリーズの3記事(この記事自体を含む)
1.百首は 日本の歴史のどの範囲?
2.1番歌は聖徳太子でも良かったんじゃない?
3.定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる (この記事デス)


・百人一首 百歌人中の 藤原族34歌人  南家・京家を含む


・百歌人中の 藤原族34人中  藤原北家流れ31歌人 詳細

 
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