天智天皇、白村江戦、近江商人

ブログ ⇒ 日本と韓国の思想−−この似て非なるもの
記事 ⇒ 激動の東アジアと日本の戦略
http://takezawa.iza.ne.jp/blog/entry/1026472/ 
が余りにも興味深いので記事文を転載させていただきます。


中国南朝の影響を受けた百済は、貴族的で優麗な仏教文化の花開いた国でした。日本との交流も盛んで、儒教や仏教が日本に伝わったのも百済からでした。その百済も、新羅と唐の連合軍に攻められて660年には焦土と化します。仏閣と市街が全て焼かれ、王は唐に拉致されました。この時、崖から王を見送った宮廷女官3,000人が次々と海に飛び込んで自殺するという悲惨な出来事が起こります。女官たちの衣服を花に擬して、その崖は落花岩と呼ばれるようになりました。

鬼室福信(キシツフクシン)という百済の王族は、山に逃れて日本の朝廷に書状をしたため、人質となっていた王子豊璋(ほうしょう)の帰国と援軍の派遣を求めます。日本はこの要請に応えて663年に5千の兵を豊璋とともに百済の地に上陸させました。陸戦に強い日本兵は新羅軍を蹴散らして、百済復活の可能性が見え始めたその時です。日本の将兵にいつも囲まれている王子を見るにつけても、鬼室福信はある疑念にとらわれます。それは、「王子豊璋を利用して日本は百済を奪い取ろうと企んでいるのではないか」ということでした。この疑念によって百済陣営は分裂し、遂に王子豊璋は鬼室福信を殺害してしまいます。この内紛に乗じて新羅は百済に再度大軍を送って、残軍を掃討しました。この時、日本が再度派遣した水軍2万余も、白村江で唐の海軍に待ち伏せされて400艘の船を焼かれ、全滅してしまいます。

辛くも生き残った百済人難民を日本は積極的に受け入れました。『日本書紀』には、665年に百済の男女400人を近江の国神崎郡に住まわせ、669年に余自進、鬼室集斯ら男女700人を近江の国蒲生郡に移住させたと書いてあります。その他、関東には百済人や高句麗人2,000人を送り込んでいます。

百済支援も亡命者受け入れも、中大兄皇子(天智天皇)の強いリーダーシップによるものでした。天智天皇は668年に即位すると、亡命してきた百済の貴族達に百済の官位をそのまま与えて大臣やブレインに登用します。百済王族であった鬼室集斯は学識頭(今の文部大臣)に任ぜられて、儒学教育に尽力して尊崇され、日野町には鬼室神社が残っています。その他、大勢の百済人が、次の天武朝にかけて、仏像、壁画から漢詩文に至る溌剌とした白鳳文化の興隆に貢献したのでした。関東に送り込まれた百済人たちは、各地で勢力を蓄え、「坂東武者」の祖となったとする説もあります。

ともあれ、新羅は唐と同盟することによって百済の次に高句麗をも滅ぼしたのですが、新羅と唐の同盟は同床異夢でした。「高句麗の地は漢の四郡の置かれた時代から元々中国のものである」と唐は主張しはじめ、旧高句麗や旧百済の地に唐の役所を設置したり、反新羅の勢力を支援したりの内政干渉を始めます。これに対抗して新羅は、民族の危機を訴えて高句麗や百済の遺臣を味方につけると同時に、日本に応援を要請してきました。一方、新羅の抵抗に手を焼いた唐も頻繁に日本に使いを送り、唐と日本が同盟して新羅を挟み撃ちにしようと持ち掛けます。

日本書紀にも新羅と唐の使節が頻繁に来日したことが書かれています。反目する両国から色目を使われた日本ですが、天智天皇は「憎い新羅を討つために唐と連合しよう」と考え、大海人皇子(後の天武天皇)は「新羅を応援しよう」と考えたようです。天武は「もし日本が唐と結んで新羅を滅ぼしても半島を唐と折半できる筈がない。次に唐が狙うのは日本である」と見透かしたのではないでしょうか。唐に裏切られた新羅の使いの嘆き声を「明日はわが身」と感じもしたことでしょう。

東アジアの動乱に巻き込まれようとする日本の戦略的な決断が迫られた時であったといっても良いでしょう。各地の豪族の意見も天智側と天武側に二分されて壬申の乱(672年)となり、天武天皇が即位することとなりました。この直後から約30年間は遣唐使の派遣が中断し、その代わりに遣新羅使が9回も派遣されているのですが、上に述べたような事情を物語っているのではないでしょうか。

新羅は唐を半島から追い返し、独自の文化を築きます。

『 仏教へのいざない 』
http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/27.html より  仏教伝来 時系列図



本ブログの別記事 『 藤原不比等は天智天皇の落種(おとしだね・落胤 らくいん) 』
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/152497308.html より  
日本の「都(みやこ、京・宮)」 の変遷



白村江の戦い



NHK番組 第4回 そして日本が生まれた 4/8 〜白村江の敗戦から律令国家へ〜
6分頃から 「 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ 」 の逸話あり。
逸話のアト、中大兄皇子が、豊璋(ほうしょう)に織冠を授けるシーンが出てきます。
こういうシーンは、小中華思想の反日嫌日侮日で凝り固まっている、韓国の人々からすると、
「デタラメだ・作り話だ」と言うんでしょうね。でも、そう言われて、「絶対にデタラメでは
ない!」 とも言い切れないのが歴史資料というものだ、と認識しておく方が健全でしょう。
そのうえで・・・、彼我の現在の国状や国民性の違いを静かに鑑みて、どうやらあちらがデタ
ラメを教えられていて、日本側に真実に近い資料が残っているのだろうと、秘かに思い続ける
と言うのが、紳士的(日本人的)と言えると私は判断してます。
  
 遣隋使は推古期のみ。遣唐使は舒明期から。
   随(581〜618) 約40年間
   唐(618〜907) 約300年間
   690〜705の間は唐王朝ではなかった。
 1/8 2/8 3/8 4/8 5/8 6/8 7/8 8/8


「織冠」というのを少し詳しく知ろうとwikipediaを見ると
「大織冠」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B9%94%E5%86%A0 が出てくる。
そしてなんと大織冠を与えられたのは、
藤原定家の大先祖(16代上)の中臣鎌足(死後、藤原鎌足)のみという。
そこで、次のような面白い記事にも出会うことになってしまう。
『 中臣鎌足 = 豊璋 、 ほうしょう は かまたり ではないのか? 』 説
実は私も、なぜ中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の斉明天皇を伴ってまで、
一時的とはいえ、都を朝倉(福岡県)に移してまで、
百済救済(古代の歴史を時系列に眺められる現代人の私にすれば、突然の海外遠征)に臨んだのか
興味津々なのです。それが、このブログを最近、百人一首ブログなのに、なんとなく日中朝の歴史ブログのように転化させてしまっているのです。

ただし、「白村江の戦い」 は、古代日本の、初の海外遠征ではないようです。
600年代初頭、推古天皇期(摂政=厩戸皇子=聖徳太子)のころに遠征してた模様。
(朝鮮の広開土王の碑文に書かれているらしい)
wikipedia 『 日本の軍事史 』 の古代 によると・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2#.E5.8F.A4.E4.BB.A3
4世紀末までに大和政権は奈良に拠点を持ち、7世紀初めには憲法十七条の制定などに見られるように国家としての体制を整備していた。この頃には日本は海外遠征を実施するだけの軍事力を準備し、実際に朝鮮半島において日本の軍勢が戦っている(広開土王碑)。しかし663年に日本は中国と新羅の連合軍に白村江の戦いで敗北し、この敗北により日本は防衛体制を見直し、対馬や壱岐などの重要地域に防人や烽火を設置し、北九州の外交と防衛の拠点である大宰府には水城を設置して敵の着上陸に備えていた。
広開土王碑
http://tahyuka.hp.infoseek.co.jp/reki-4koukai.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91

「朱蒙(チュモン)」から見た日本古代史 第2部
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum13
人物 朱蒙 ⇒ 高句麗初代王とされる人物
番組 朱蒙 ⇒ 韓国MBCで三国史記と百済本紀の分注の別伝に記された神話伝承を元に朱蒙を主人公とし製作された韓国の歴史ファンタジードラマ
7世紀半ば、どういうわけか日本に百済の王子が滞在していた。百済国第31代にして最後の王である義慈王の子供の一人である。その名を扶余豊璋(ふよほうしょう)と言う。日本の歴史を学んでも小中高の教科書、参考書程度ではまず名前を見ることの無い人物だが、日本書紀に詳しい記述がある。ちなみに扶余とはもちろんプヨのことである。

彼は日本と百済の同盟関係を担保する人質として日本に滞在していたようで、言ってみれば漢の長安に放り出されたヨンポ王子みたいなものだが、実際には賓客扱いで決して悪い待遇ではなかったらしい。

7世紀半ばといえば、日本では大化の改新(645年 乙巳の変)が起こり国中が揺れ動いていた時代である。中大兄皇子と中臣鎌足が組んで、それまで政治を牛耳っていた蘇我一族を滅ぼしたというのが事件の概要であるが、この中臣鎌足こそ実は豊璋その人ではなかったかというユニークな説を語る人がいる。(歴史作家 関裕二氏)

乙巳の変以前、蘇我氏が権力をふるっていた時代には、日本は高句麗・百済・新羅の三国いずれとも等しく国交を維持する、つまり中立の立場を取るという外交的に極めて真っ当な政策を取っていた。ところが、中大兄皇子が権力を手中にしてからはあからさまに百済よりの政策を取り始めるのだ。

朝鮮半島の情勢を見ればその後唐と同盟を結んだ新羅が660年に百済を、668年には高句麗を滅ぼしたのであって、少しでも時勢を見られたのであれば新羅と手を組むか、あるいは半島には全く関知しないというのがあるべき姿だろう。

しかし、中大兄皇子は百済滅亡後、日本国内に滞在していた豊璋を本国に返すだけでなく、都を筑紫に移してまで百済復興の戦いに撃って出るという信じられないような政策を取っている(結果は惨敗)。どうしてそこまで百済に肩入れする必要があったのだろうか。

そして、日本書紀の記述を読むと、豊璋が本国へ帰っていた時期、中大兄皇子の片腕だったはずの鎌足の行動がまったくわからないのに、豊璋が行方不明になった途端に再び活動を始めるという不思議。さらに、当時の位を示す冠位のうち最高位の「織冠」を与えられたのは鎌足と豊璋のただ二人だけという事実。(奈良の広陵町にある百済寺には鎌足が祀られている)
これらを総合すると中臣鎌足=豊璋という説も無い話ではないように思えてくる。


posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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