ももしき と ももひき

一音違いで、 大違い。   「 しき ( 敷き ) 」 と 「 ひき ( 引き ) 」 

100番歌  ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院

歌意)
宮中の古びてしまった建物の軒の端に しのぶ草がおい茂っている。
その草を見るにつけ、朝廷の栄えた昔がしのばれる。
あぁ なんと懐かしく思われることだろうか。
と言うことで、
「ももしき」 は漢字だと、 「百敷」 とか 「百磯城」。
「百」 は 「多くの」 を表す文字。
「敷」 は 「石を敷いて」いる 「状態・様子」。
けっきょく、「ももしき」は、
多くの「敷石」を敷き詰めた場所。多くの人々が集まるところ ⇒ 宮中・宮殿・御所。

万葉集で 「ももしき」 が詠まれている歌 の一例 
巻10−1883  ももしきの 大宮人は 暇あれや 梅をかざして ここに集へる   作者不詳
原典)  百礒城之 大宮人者 暇有也 梅乎插頭而 此間集有


いっぽう、
「ももひき」 は漢字だと、 「股引」。
すなおに読んでしまうと、「またさき」?No!No!「またひき」?。
日本の伝統的下着の一種。
腰から踝( くるぶし)まで、やや密着して覆う形のズボン型。
くるぶし ⇒ 足首の関節の内外両側に突き出した骨。
腰の部分は紐で締めるようになっている。
安土桃山時代にポルトガルから伝わったカルサオと呼ばれる衣服が原形。
なので、
「ももしきや・・・」 などと歌が詠まれた頃にはまだ、
「ももひき」 は無かったんでしょうね。

江戸時代には鯉口シャツや、「どんぶり」と呼ばれる腹掛けと共に
職人の作業服となった。
神輿(みこし)の担ぎ手や、御輿の上で踊る男衆、の服装として、
地域のお祭りでお見受けする。

インナーウェア歴史的呼称あれこれ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A1%E5%BC%95
晒 - 腹巻 - 襦袢 - 裾除け - ズロース - 貞操帯 - ミキナス - コッドピース - ふんどし - 越中褌 - 六尺褌 - 湯文字 - クリノリン - バッスル - ステテコ - ユニオンスーツ- ロインクロス - 猿股 - 股引 - 鯉口シャツ- ダボシャツ

岸和田だんじり祭 カンカン場 part3  kishiwada danjiri 2009

歌人について)
順徳院(じゅんとくいん、1197〜1242、45才)
在位期間は、1210年12月〜1221年5月、13〜23才頃の10年半ほど。
1197年、鎌倉幕府成立年とされる1192年の5年後、に生まれる。
1221年、24歳の時に父に呼応して、承久の乱に参加。
1242年、20余年の佐渡配流生活の後、45才で没。

百人一首の百番歌は、
幕府(=武家)の勢力が増大し、
それに呼応してと言うか、それとは対照的に、朝廷の権力が衰退してしまった時勢を
順徳さんが寂しく思い、「あぁ時代は変わってしまったなぁ」と
昔を懐かしみ惜しむように詠んだ歌なのでしょう。

鎌倉時代は1192〜1333年の約140年。
鎌倉時代を前中後期と三期に分けると、
順徳院は、鎌倉時代前期に「生まれ&死んだ」人と言えます。

平安時代(794〜1192)の、「後期」 歴代天皇     鎌倉時代(1192〜1333)の 歴代天皇
 
77代後白河天皇から88代後嵯峨天皇までの天皇系図。

朝廷が南北に別れたのは96代後醍醐天皇から。
北朝は持明院派の血統。持明院派初代は89代後深草天皇。
南朝は大覚寺派の血統。大覚寺派初代は90代亀山天皇。 (後醍醐天皇は、亀山天皇の孫)
・鎌倉時代の天皇系図( 82代 後鳥羽天皇 〜 96代 後醍醐天皇 )
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/image/kamakura.jpg

以下は、wikipediaの「順徳院」の「略歴」を編集。
1197年10月、産まれる。(鎌倉幕府成立年とされる1192年の5年後)
1200年04月、3才時に皇太子となる。
1210年11月、後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受け、13才時!に即位。
         穏和な土御門さんとは反対に
         順徳さんは激しい気性の持ち主だとされていて、
         後鳥羽上皇は、ご時世がら、順徳さんにチェンジ!させたのでしょう。
         譲位した土御門さんには権力は無く、
         後鳥羽上皇による院政が継続された。

         上皇の院政のため、直接政務にあずからない順徳天皇は、
         王朝時代の有職故実(研究に傾倒し、
         幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』を著した。

         また、父(後鳥羽上皇)の影響で和歌や詩にも熱心で、
         藤原定家に師事して歌才を磨き、
         藤原俊成女(後鳥羽院の女房)や、
         藤原為家(定家の息子&「冷泉家の祖=為相」の父)とも親交があった。
         「定家の孫 から 18代 遡(さかのぼ)ってみる」
          ⇒ http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/108517927.html

         歌集としては、『順徳院歌集』があり、
         歌論書には、当時の歌論を大成した『八雲御抄』が知られている。

1221年04月、父上皇の討幕計画に参画し、
         それに備えるため、息子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位。
         順徳天皇は、上皇の立場に退いた。
         順徳上皇は、父の後鳥羽上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、
1221年05月、承久の乱を起こした。しかし、倒幕は失敗。
1221年07月、21日。順徳上皇は佐渡へ配流となった。
1232年      在島中の詠歌『順徳院御百首』が残されている。
1242年09月、12日。在島21年の後、佐渡で崩御。
         これ以上の存命は不要と、断食を行った後、
         最後は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられている。

         配流後は佐渡院と称されていたが、
1249年07月、20日。「順徳院」 と 諡(しorおくりな)された。

その他、順徳さんとの関連話題:
・83代土御門さんは
  父達の反幕府行動には関与してなかったので処罰されなかった。
  しかし、「父が隠岐に流されているのに自分が京にいるのは忍びない」と
  自ら申し出て土佐(高知県)に流された。
・定家は、
  幕府への配慮からか、
  『新勅撰和歌集』( ← 「十三代集」の初代歌集)  には、 順徳さんの歌を載せなかった。


) 有職故実(ゆうそくこじつ)
古来の先例に基づき、官職・儀式・装束などを研究すること。
「有識」とは、過去の先例に関する知識を指し、
「故実」とは、公私の行動の是非に関する説得力のある根拠・規範の類を指す。
そうした知識に通じた者を有識者(ゆうそくしゃ)と呼んだ。
後に転じて「有職」と呼ぶようになった。
現在、深い学識・見識を持つ人を「有識者(ゆうしきしゃ)」と呼ぶのはこの名残。



余談) 「しのぶ」 で、 
「しのぶ草(篠ぶ草 ← 篠原)」 から、 「さしも草」 や 「さねかずら」 を連想したので、
百人一首で、それらを絡めている歌をピックアップしてみました。

 しのぶ、忍ぶ、信夫、篠原(篠が生えている所 ⇒ 「草が忍ぶようにひっそり生えている所」とも)
14. みちのくのしのぶもぢずりたれ故に 乱れそめにしわれならなくに  川原左大臣
39. 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき     参議等
40. 忍ぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで    平兼盛
89. 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ることの弱りもぞする    式子内親王
100. ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり    順徳院


 さしも草、よもぎ ⇒ お灸の「もぐさ」を採る草。 ⇒ めらめら燃える・じりじりじれる思いを表現
51. かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原実方朝臣
75. 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり     藤原基俊


 さねかずら ⇒ 一夜のアバンチュール(小寝・さね)を表現
25. 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな   三条右大臣


関連おもしろサイト
・「忘れ草と忍ぶ草」
http://www.asahi-net.or.jp/~zz8k-tmng/plants/sinobu.html
上サイトの冒頭文:
「昔 忍ぶの 忘れ草」とは、胡蝶の一節ですが、その説明に(謡本)「軒に忘れ草が生えて昔を忍ぶ感がある」と書かれている。また、野上豊一郎の謡曲の本の説明には、「昔を忍ぶ忍ぶ草、一名また忘れ草。今は忘れられている 旧跡となっている意。」となっている。意味の方はともかく、シノブと忘れ草が同じものとは思えず調べてみた。
・「百人一首と和菓子 小寝葛 ( さねかずら ) 」  from 辻調おいしいネットhttp://www.tsujicho.com/oishii/recipe/j_sweet/hyaku/sanekazura.html
上サイトのとても面白い部分を以下に抜粋(若干編集):
お菓子の名前 「小寝葛」 は 「さねかずら」 と読みます。
ここでは歌に詠み込まれた感情を表す意味で 「小寝」 の字を当ててお菓子の名前としました。
この 「さねかずら」 というのはつる性の植物で、秋になると実が白から赤に変わります。
「 実葛( さねかずら )」 は、 実( さね )が美しいつる植物( かずら ) という事からの命名です。
(中略)
さて歌の方ですが、
逢坂山のさねかづらよ、「逢って寝る」という名前がついているくらいだから、
お前の力で、人に知られないで愛しい人のところへ連れて行っておくれ。

と、直接的でちょっとエロティックです。
じつは、古典が堅苦しいというのは、大きな誤解。
下手な小説より、ずっと、きちんと恋愛を描いており、
恋する人の胸の内は今も昔も変わらないのだと分かります。
25. 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな   三条右大臣
「逢坂」    に 「逢う」 、
「さねかづら」 に 「小寝」 、
「くる」    に 「繰る」 ( ← さねかづらの縁語 )、

が掛けられていて、技巧を凝らしています。
古語の「来る」には、今の「行く」の意味もあります。


茅(ちが)、 よもぎ、 さねかずら。
    
茅( ちが or ちがや ) は ススキ の別名 であるが、チガヤ などの総称 でもある。
「茅葺」 の読みは、 「かやぶき」。
茅葺( かやぶき ) とは、 カヤ( ススキ や チガヤ など )を材料にして葺く 「家屋の屋根の構造」 の一つ。
「茅葺き屋根」、 「茅葺屋根」 ともいう。
用いる材料により、藁葺(わらぶき)・草葺(くさぶき)と呼び、区別する場合もある。
英国やドイツなど、世界で広く見られ、日本独特なものではない。

入母屋造りの茅葺屋根(箱木家住宅)、  ドイツの茅葺き民家。
    

よもぎは、今の私達には、
51. 藤原実方朝臣や、75. 藤原基俊 が歌っている「お灸用の モグサ の原料」 としてよりも、
よもぎ餅や、お吸い物、揚げ物、の素材としてのほうが、より身近で親しみ深い。
他に、薬草としての効果もある。
さらに、道路工事での法面(のりめん)の補強にも使われるという。
よもぎは 地味ながら 実に利用価値の高く広い植物。
Wikipediaの 「よもぎ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%A2%E3%82%AE
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 同じ語句、共通点 のある歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/154599185
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。