藤原不比等は 天智天皇の 落種

「落種」=おとしだね。 律儀に書くと 「落胤」。
ここで、「胤」という漢字は普段まずお目にかからない漢字です。
分かりやすく大きく書いてみました。 

落胤  (らくいん・おとしだね)

Wikipediaより、鎌足の系譜 抜粋 (夫人と息子にからむもののみ)
中臣鎌足(614〜669、差55)
臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。(天智天皇[=中大兄皇子]から)
生きていたころの彼を指す場合は「中臣鎌足」、
「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」、を用いる。
  正妻: 鏡王女(かがみのおおきみ) (?-683) ( 最初、中大兄皇子妃であった
  妻  : 車持与志古娘  ( くるまもちの よしこの いらつめ )
    長男: 定恵(俗名、真人) (644-665) (僧侶)
    次男: 不比等(659-720、61) (『興福寺縁起』では、不比等の母は鏡王女とされている)

同じくWikipediaより、不比等の概要 抜粋
 藤原不比等は、天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。 不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味である。

 万葉集 巻1−13  天智天皇
香具山は 畝傍雄々しと 耳成と 相争ひき  神代より かくにあるらし
古も しかにあれこそ  うつせみも 妻を争ふらしき
原文:
高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎  神代従 如此尓有良之
古昔母 然尓有許曽  虚蝉毛 嬬乎相挌良思吉

4時半は、7時半雄々しと、12時と、・・・

上右のgooglemapで、
右下あたりの緑域が「香具山」。
左下角が「畝傍山」。
上部中程に見える丸い緑域が「耳成山」。
「香具山」を四時半方向の山とすると、
「畝傍山」は七時半方向の山。
「耳成山」は十二時方向の山。
この三つの山(大和三山)は、
一辺が2.5km〜3.2kmの三角形を形成する。
この三山を四時半・七時半・零時の方向辺りに
見たであろう様な所に、藤原京(694〜710年)
の中心が在ったのでしょう。
この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化。
白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。
大官大寺や薬師寺(右画像は薬師寺東塔)などが造営された。
白鳳文化を代表するものとして興福寺仏頭などがある。
「香具山」は百人一首2番でも歌われている。
41代持統天皇(38代天智天皇の娘。40代天武天皇の皇后)の歌。

(蛇足) 冒頭 「万葉集 巻1−13」 の わたし的解釈:
香具山を 額田王(ぬかたのおおきみ・)、
畝傍山を 大海人皇子・のちの40.天武天皇・38.天智天皇の弟、
耳成山を なぞの女、 としました。  

神代の昔から、いい男をめぐり女が取り合いするものだ。
私の近辺でも、額田王は、「大海人皇子が素敵だ」と言って、
あの娘と、妻の座を争っている。 (額田王ちゃん、あの娘は大海人皇子にあげて、私の所においでよ・・・)



小倉百人一首を眺めていると、私の場合、「定家のひとつの歌集」というイメージがあるので、定家の「きままさ」を、こちらも「きままに味わう・楽しむ」という面白さを感じています。そして、天智天皇という人物、上のYouTubeのような長歌を詠う方ですので、「御落胤」の一人や二人、居て当然と考えると面白いです。

定家は 『 百人秀歌 』 に次のような言葉を書き留めてもいますし。
「名誉の人 秀逸の人 皆これを漏らす 用捨は心にあり 自他の傍観あるべからざるか」

小倉百人一首は天皇の命令としての国家事業的歌集「勅撰歌集」ではないですから、私としては、定家の属した「藤原北家」という家流を強くイメージしていますし、百首 中盤の女性歌人のオンパレードで、その背後に平安時代中期の代表的人物「藤原道長」も意識されます。

そんなことで最近までは、「四人の娘を四天皇に入内させた」藤原道長と、「乙巳の変で中大兄皇子を支え、藤原氏の氏祖となる」中臣鎌足(死後、藤原鎌足となる)に関心を持っていたのですが、最近は、鎌足の息子(次男)であり、藤原四家の四兄弟を生んだ「藤原不比等」という人物にも興味が湧いてきました。

・Wikipedia資料
藤原南家 藤原武智麻呂(むちまろ)  680〜737
藤原北家 藤原房前  (ふささき)  681〜737
藤原式家 藤原宇合  (うまかい)  694〜737
藤原京家 藤原麻呂  (まろ)    695〜737

不比等の息子、武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は異母兄弟。
不比等の娘、宮子(聖武天皇の母)と光明子(聖武皇后)は、異母姉妹。
四子政権時代には
1 律令財政が確立された。
2 京や畿内に惣管(そうかん・行政監察)、京以西の道(どう)ごとに節度使、を設置し治安維持を強化。
3 対外的には遣新羅使の派遣や、東北遠征などが行われた。
   (遣隋使は600年から。遣唐使は630年から。遣唐使終了宣言は894年)
 3から伺われるのは、半島との太いつながりです。朝鮮半島や中国大陸のほうに意識が集中していたのでしょうね。今で言う北海道は、当時の大和人には意識の及ぶところではなかったのでしょう。当時の「西域と東域」の「文化的引力」の違いでしょうか。四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死し、藤原四子政権は終ります。
 旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良、・・・で、藤原四兄弟は奈良時代の人ですが、古代は当然ながら、日本と半島に国境というようなイメージなど薄く、その時々の情勢で自在に統治域が変わっていただろうし、お互いの往き来も自然な形で行われていたのだと思われます。日本の古代国家(大和王朝)の成立は、先住系の縄文人・渡来系の弥生人、が融合し発展した集落の内、もっとも勢力を強めた地域(近畿地方)を拠点として成立した国家(当時としての大きな勢力)なのだろうと、私は思っています。



「四人の娘を四天皇に入内させる」という執念とも言えるような道長ですが、
藤原不比等も、さすが鎌足の子&四兄弟の父親だけあってなかなかの人物です。
鎌足は死後「藤原」姓を天智天皇から受けたので、実質的な藤原氏の祖は不比等とも言えます。
不比等はまた、「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では
天智天皇の「御落胤」(ごらくいん・おとしだね)とあるようですし・・・。
不比等が次男(鎌足の長男の存在が不比等に較べて薄い)というのも、「落胤説」に拍車を掛けます。

藤原不比等: 659〜 720、差61
藤原道長 : 966〜1027、差61


不比等の子の内、
四兄弟が「藤原四家」の祖。
二人の娘が、二天皇(42.文武天皇、45.聖武天皇)の夫人。
特に、聖武天皇の夫人は「光明子」。
聖武天皇を仏教に深く帰依させたとも言える女性です。

鎌足と四兄弟にかくれて幾分目立たないけれど、
不比等という人も、かなり有能な政治家だったようです。
奈良の平城京を見下ろすかのような興福寺(藤原氏の氏寺)
の開基は藤原不比等。
( ただし、興福寺の創建年自体は、天智天皇8年[669年不比等生誕の10年後] と成ってはいる )

・奈良時代の天皇                            ・平安時代中期の天皇
  


・百人一首 百歌人中の 藤原族34歌人  南家・京家を含む


・百歌人中の 藤原族34人中  藤原北家流れ31歌人 詳細



不比等と道長の比較
・不比等の場合


・道長の場合 四子を四天皇へ入内させた道長


平安時代中期の天皇系図


天皇家直系系図


飛鳥時代以降の天皇の居住地(日本の首都?)

以下は、wikipedia 「天皇居住地の変遷」 冒頭部 抜粋

歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。
古墳時代以降は、皇居のための宮殿(御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、
首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

宮殿や貴族の邸宅であっても、
奈良時代までは基本的に掘立柱建築だったため、建物の耐用年数が短かった。
同じ掘立柱建築である伊勢神宮の遷宮は20年に1回である。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、
政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。
中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京・平城京・平安京などでは、
計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、
地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、
いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。


●平城京を考える
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html
上サイトの興味深いところ一部抜粋(以下)。
ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。・・・

1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD


posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 百人一首と 藤原家・冷泉家 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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