歌人と時代背景6 鎌倉前期

鎌倉時代前期(1192年〜1240年頃)の歌は、93.鎌倉右大臣 〜 100.順徳院 の 8首。

      

93 世の中は常にもがもな渚こく あまの小舟の綱手かなしも       鎌倉右大臣
94 み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり        参議雅経
95 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみぞめの袖   前大僧正慈円
96 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり    入道前太政大臣
97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ    権中納言定家
98 風そよぐならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける     従二位家隆
99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は     後鳥羽院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院



鎌倉時代を概観してみます。鎌倉時代は年代では、1192年〜1333年。
この期間の天皇はおおむね、82代後鳥羽天皇〜96代後醍醐天皇です。

●鎌倉時代の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(鎌倉時代。1192年頃〜1333年)   
「治承寿永の乱」、そして「奥州合戦」などを経て、鎌倉幕府が成立する。
頼朝没後、義父・北条時政が初代執権となり、頼家・実朝は謀殺・暗殺される。
源氏将軍の断絶を契機に、後鳥羽上皇(82代)が朝廷の権威挽回のため討幕に走るが、敗北。
幕府は武家の法令「御成敗式目」を制定。 それまでの公家目線の「律令」を改変。
後期に、二度にわたり元が攻め入る。( 元寇 ・ 文永の役(1274)、弘安の役(1281) )
元寇で乱れ弱った幕府を見て、96代後醍醐天皇が倒幕を企てる。
結果として、足利尊氏が  室町初代将軍となり、朝廷は60年余り南北に別れる。
以降、朝廷は事実上、政治の実権力から遠ざかる。


●天皇とその周辺
この時期は武家に政治の実権が移った節目の時代です。
日本史の大区分も鎌倉時代には、平安時代までの「古代」から、「中世」に変わります。
平家の滅亡を告げる悲運の幼少天皇・81代安徳天皇に代わって登場するのが82代後鳥羽天皇。
調べてみると、82代後鳥羽天皇は、
81代安徳天皇が壇ノ浦に沈む2年前、わずか3才で即位させられています。
天皇というのは時代をかき混ぜても居ますし、時代にかき混ぜられてもいる存在ですね。
この82代後鳥羽天皇がまた、鎌倉幕府と対峙することになりますから。
この対峙「承久の乱」の結果として、
82代後鳥羽さんは隠岐の島(島根県)に、
82代後鳥羽さんの息子 84代順徳さんは佐渡が島(新潟県)に配流されます。
このお二人が百人一首を締めくくるお二人です。

82代後鳥羽さんは二人の息子が天皇です。84代順徳天皇と83代土御門天皇です。
83代土御門さんは父達の反幕府行動には関与してなかったので処罰されませんでした。
しかし、83代土御門さんは「父が隠岐に流されているのに自分が京にいるのは忍びない」と
自ら申し出て土佐(高知県)に流されました。


●定家と後鳥羽院の確執
後鳥羽さんは定家をもり立ててくれた恩人であると同時に、
互いに歌に関して一家言を持っている激情家のため、定家と対立もあった人物。
定家の生い立ちと後鳥羽天皇
平安前期の菅原道真の怨霊話にからみ 後鳥羽さんと定家の確執が爆発
 ( 以下に、上のサイトの「 定家明月記私抄 続編 」部の一部を転載させていただきます。 )

後鳥羽上皇・藤原良房・定家の時代となり、
新古今和歌集の撰歌を終えた頃から、後鳥羽上皇は関心が政治や遊興に移り、
何かと定家の気に食わない存在となっていった。

(二人の生没年)
藤原定家 : 1162〜1241、差79。 (定家が18の時後鳥羽さん産まれる)
後鳥羽さん: 1180〜1239、差59。


1213年。
後鳥羽上皇が検非違使別当(警察庁長官)を遣わして、
定家の庭の柳二本を抜き去るという事件があった。
定家は、宝剣無くして立った帝であるから末世的な状況になったと捨て台詞を残す。

1220年。
順徳天皇による内裏での歌会で次の歌を歌った。
道のべの 野原の柳 したもえぬ  あはれ嘆きの 煙くらべに

これを見た後鳥羽上皇が激怒した。
「道のべの朽木の柳春来ればあはれ昔としのばれぞする」は菅原道真。
「立ち添いて消えやしなまし憂きことを思い乱るる煙くらべに」は源氏柏木。
「定家は己を道真に喩えて柳の恨言を言っている」と。
これで定家は人生二度目の処分を受けた。
勅命で勘当されて閉門になった(勅勘)。
実は、この後鳥羽上皇と決別が、転じて福となる。

あとで後鳥羽上皇は、定家を評して、天分は優れているが正体のない歌とした。人と和するためには、和することのできる「景気」、景色・配置・詩的雰囲気が必要であり、最小限でも「ことはり」、筋道・道理・詩的論理が必要である。定家の歌は、景気もことはりもないと言うのである。後鳥羽上皇は、歌はあくまで宮廷の社交上の儀礼の範囲であったが、定家の歌は宮廷から独立しうる美的完結性を目指したものであった。・・・



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/151973693
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。