天智天皇の 「 秋の田の・・・ 」 は福岡で詠んだ歌かも


1番歌  秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ   天智天皇(=38代天皇)

中大兄皇子(=38.天智天皇)は母親の37.斉明天皇ともども、
「当時の日本の指導層一体」で九州方面に出向いてまで、「白村江の戦い(663年)」に臨んだんですね。
下のYouTubeの6分過ぎあたりからに拠ると、「斉明天皇が遠征中に亡くなった(661年)。中大兄皇子はその死を悲しみ、遠征先の小屋で  ” 秋の田の・・・ ”  と詠んだ」 そうです。
  
 遣隋使は推古期のみ。遣唐使は舒明期から。
   随(581〜618) 約40年間
   唐(618〜907) 約300年間
   690〜705の間は唐王朝ではなかった。


1分50秒で分かる「白村江の戦い」
 645年(大化元年) 
 中大兄皇子と中臣鎌足によって、
 蘇我氏宗家が滅ぼされる。⇒乙巳の変
 中大兄皇子の叔父が即位。⇒36.孝徳天皇
 体制の改新が始まる。
  ⇒ 「大化の改新」

 中臣鎌足=藤原鎌足・定家の16代上
 「大化」は日本最初の元号。
 「白村江の戦い」は663年。


それだけ、百済の復権救済(自国の勢力拡張の意図もあったのでしょう)に気合いを込めてたんですね。
なるほどだから、「万葉集に出てくる額田王(ぬかたのおおきみ)の次の歌が 愛媛県の松山市 あたりで詠んだ歌」 とされてるんだ、と納得した次第です。

熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな   万葉集巻1−8  額田王
にきたつに ふなのりせんと つきまてば しおもかないぬ いまはこぎいでな
原文: 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

この歌に出会ったとき、なぜこの時期の貴族の女性が愛媛県の松山市あたりで「しかも潮目を読むかのような」歌を詠んだのか、疑問だったのです。この歌の作は、額田王ではなく、斉明天皇だとも言われているのですが。

左画像は、 ”熟田津 ” と ”朝倉宮 ” の大まかな位置

朝倉宮は博多湾から30kmほど奥まった場所。
「熟田津に・・・」の歌で伺われるように、
船で向かった白村江への遠征なのに、
とても用心深い位置に拠点を置いてます。
これに対して面白い古代史想像遊び
をしているお方を発見。

日本人のルーツを訪ねて(朝倉宮)

額田王か斉明天皇が、現在の愛媛県松山市あたりで「熟田津に・・・」と詠んだのだったら
中大兄皇子が、同じく福岡県朝倉市で「秋の田の・・・」と詠んだとしても一向におかしくはないですよね。
私はずっと、「秋の田の・・・」は、定家が「詠み人知らず」の歌をあえて「農耕を尊ぶために」と「天智天皇の歌」とした、と解釈してましたので、冒頭の番組で「新しい伝説」を得て新鮮な気持ちに成れました。


日本の歴史区分は、原始が旧石器・縄文・弥生・古墳、古代が飛鳥・奈良・平安、となってます。百人一首に接してきたお陰で私自身が分かったのは、古代の日本の姿です。とりわけ、朝鮮半島との関係。当時は、日本と半島に国境というようなイメージなど薄く、その時々の情勢で自在に統治域が変わっていたのでしょうね。お互いの往き来も自然な形で行われていたのだと思われます。日本の古代国家(大和王朝)は、先住系の縄文人・渡来系の弥生人、が融合し発展した集落の内、もっとも勢力を強めた地域(近畿地方)を拠点として成立したのだろうと、思うようになりました。
 [参考] 任那日本府(みまなにほんふ) 
 当時の呼称は倭府(やまとのつかさ)?
 日本書紀の欽明紀()に記されている「倭国の統治機関」。古代朝鮮半島南部の「伽耶(かや)またはその一部である任那」にあったとされる。実在については諸説があり詳らかではない。ただし、倭人のなにがしかの集団が同地域に存在していた、との見方が一般的。
  欽明天皇   第29代天皇。(6世紀)
・在位期間は539年〜571年。(古墳時代)
・歴代初の女性天皇33代推古天皇の父親。
欽明天皇・推古天皇近辺の天皇系図
 YouTube 任那日本府の謎   9回シリーズ  ⇒ 、 、 、 、 、 、 、 、 
「白村江の戦い」(663年・飛鳥時代)には、「古代の日本が海外で戦い!?」 と驚かされたのですが、
「任那日本府」は、それ以前の、古墳時代のお話ですからねぇ。


飛鳥時代以降の天皇の居住地(日本の首都?)


以下は、wikipedia 「天皇居住地の変遷」 冒頭部 抜粋

歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。
古墳時代以降は、皇居のための宮殿(御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、
首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

宮殿や貴族の邸宅であっても、
奈良時代までは基本的に掘立柱建築だったため、建物の耐用年数が短かった。
同じ掘立柱建築である伊勢神宮の遷宮は20年に1回である。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、
政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。
中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京・平城京・平安京などでは、
計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、
地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、
いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。
飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。


●平城京を考える
http://yamatokoji.blog116.fc2.com/blog-entry-171.html
上サイトの興味深いところ一部抜粋(以下)。
ところで、平城京遷都1300年と聞けば、平安京遷都(794年)までは、ここが安定した都といったイメージを持ちがちだが、さにあらず。むしろ、遷都あるいは副都(1)の存在によって、上図のような、浪費的で神経質な文字通り<迷走の時代>を迎えることとなり、平城京は不安定な都であった、あるいは平安京との比較では将来の発展の芽を摘まれた都でもあったといえよう。・・・

1:遷都というか副都の設置というかは見解の分かれるところだろう。以下は引用
 「飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇の難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市、769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A6%96%E9%83%BD
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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