三十六歌仙歌人であり、
日本初の勅撰和歌集(※1)の撰者であり、 (※1)=「古今和歌集」 905年刊
日本初のひらがな文書(※2)の著者です。 (※2)=「土佐日記」 935年刊
(注) 「竹取物語」も ひらがな文書。日本最古とされる物語。
ただし、成立年・作者ともに不詳。作者は諸説あるが特定にいたらず。 関連データ
「土佐日記」ってどういうモノかと見てみると、文書量としては「短編小説」程度の量。
「かな表現文」なので原文も読めますが・・・、古文なので意味が若干分かりません。
そこで、現代語訳を探して読んでみました。すると結構面白かったです。
私が一番関心ひかれたのは、阿倍仲麻呂の歌(百人一首6番歌)を
「あをうなばらふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」 として読んで、
貫之自身の状況と阿倍仲麻呂の状況を思い較べている所です。
『土佐日記』 934年1月19日〜1月21日 の箇所。
934年 (61代朱雀天皇期。 在位:930年9月22日〜946年4月20日 )
■1月19日
天候が悪いので船は出さない。
■1月20日
昨日と同じようなので、またも船を出さない。人々はみな憂い嘆く。
辛くて気がせいてならず、ただ日数が過ぎたのを、
今日で何日、二十日、三十日と数えるので、指も痛めてしまいそうだ。とても辛い。夜は寝もしない。
二十日の夜の月が出た。山の端もないので、何と海の中から出てくる。
このような月を眺めて、昔、安倍仲麿という人は、唐に渡って帰ってくるときに、
船乗り場であちらの国の人が選別の宴を開いてくれ、別れを惜しみつつあちらの詞を作ったりしたという。
物足りなかったのか、二十日の夜の月が出るまでその場にいたそうだ。
その月はやはり海から出たという。これを見て仲麿は
「わが国ではこのような歌を、神代から、神もお詠みになり、今では上中下の身分の人も、
このように別れを惜しんだり、喜びや悲しいことがあったりしたときに歌を詠むのです」と言って歌
” あをうなばら ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に いでし月かも ”
(青々と広がった海を遙かに見渡すと、月が上がってきた。
この月は、故郷の奈良の春日にある 三笠山、あの山に出ていた月と同じなのだなぁ)
を詠んだそうだ。あちらの国の人は、聞いても分からないだろうと思われたが、
歌の意味を漢字に書き表して日本語を習い伝えている人に説明させたところ、
歌の心を理解できたのだろうか、意外なほど感心したという。
唐とこの国とは言葉は違っているが、月の光は同じはずだから、人の心も同じなのだろうか。
そこで今、その昔に思いをはせてある人が詠んだ歌
” 都にて やまのはにみし月なれど なみより出でゝ なみにこそ入れ ”
(都では山の端に見た月だけど、ここでは波から出て波に入っていく)
■1月21日
午前六時頃、船を出す。人々が乗っている船はみな出る。
このようすを見ると、春の海に秋の木の葉が散っているようだ。
並々でない願をかけたおかげだろうか、風も吹かず良い天気になって船を漕いでいく。
このような時に使ってもらおうとして、ついてきた子どもがいる。その子どもが舟歌
” なほこそ國の かたは見やらるれ、わが父母ありとしおもへば。 かへらや ”
(今となっても故郷のほうに気が向かう。父や母がいると思うと・・・。さぁ帰ろう)
と歌うのがしみじみと心にしみる。
このように歌うのを聞きながら船を漕いでいると、
黒鳥という鳥が岩の上に集まっている。そしてその岩の下に波が白く打ち寄せている。
船頭が、「黒鳥のもとに白い波が打ち寄せている」と言う。
この言葉は別にどうということはないが、しゃれた言葉にも聞こえた。
船頭には似合わないので、心にとまったのだ。
このように言いながら行くと、船の主が波を見て言った。
「土佐の国を出て以来、海賊が仕返しをするといううわさを心配する上に、
海がまた恐ろしく、頭もすっかり白くなってしまった。
七十歳、八十歳のようにふけて見える原因は海にあるんだ。
” わが髪の ゆきといそべの しら浪と いづれまされり おきつ島もり ”
(私の髪の白さと磯部の白波と、どちらが白いか。沖の島の番人よ)
だよな、船頭さん 」
55日間すべては、コチラで読めます。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tosa.htm
門出、 送別の宴、 船出、 大湊の泊、 宇多の松原、 羽根、
暁月夜、 安倍仲麿の歌、 かしらの雪、 海賊の恐れ、 子の日の歌、 阿波の水門、
黒崎の松、 忘れ貝、 住吉、 淀川、 渚の院、 帰京
の18段落に分けてくれているので読みやすいです。
原文はwikisourceにあります。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98
付1 阿倍仲麻呂、紀貫之について。
付2 「古今和歌集」、「土佐日記」について。
付3 「八代集」、「二十一代集」(=八代+十三代)について。
付1 阿倍仲麻呂、紀貫之について。
■ 阿倍仲麻呂(698〜770、差72)は奈良時代の人。
7番 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも の歌人。
第9回の遣唐使団の遣唐使として唐に渡り(717年)、唐で高官に登り詰める。
渡唐して37年後、唐の高僧・鑑真が渡日を果たした第12回遣唐使団の帰船に乗って
帰国の途についた(754年)。
この時、鑑真の船は帰日を果たしたが、仲麻呂の船はベトナム方面へ流される。
結局、仲麻呂は帰国を果たさぬまま、唐で没となる。
■ 紀貫之(870頃〜945、差75程)は平安時代前期の人。
35番 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける の歌人。
三十六歌仙のひとり。
「古今和歌集」(905年) の選者のひとり。
「土佐日記」(935年) の作者。
付2 「古今和歌集」、「土佐日記」について。
■ 「古今和歌集」 (905年)
撰者は、29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
日本最初の勅撰和歌集。
60代醍醐天皇の勅命によって編まれ、905年に成立、同年春、醍醐天皇に奏上された。
『万葉集』から撰者らの時代までの140年間の名歌を集めている。略称『古今集』。
古今集は天皇が勅命を出し国家事業として和歌集を編むという伝統を確立した書。
平安中期の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草子』では
”古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとっての教養 ”
とみなされたことが記されている。
「八代集」・「二十一代集」(=八代+十三代)の第一に数えられる。
■ 「土佐日記」 (935年)
「日本文学史上初の」のかんむり表現が3つも付く文学(文書)。
・日本文学史上初の、ひらがな文学。
・日本文学史上初の、日記文学。
・日本文学史上初の、諧謔表現文学。 諧謔(かいぎゃく)⇒ジョーク、駄洒落、ユーモア。
934年12月21日〜935年2月16日 の55日間の紀行文。
後の仮名表現による 平安中期の女流文学 の開花に、大きな契機を提供した。
『蜻蛉日記』(かげろう) 藤原道綱母(=53.右大将道綱母)
『和泉式部日記』 和泉式部(=56.)
『紫式部日記』 紫式部(=57.)
『更級日記』(さらしな) 菅原孝標女(タカスエノムスメ=24.菅家の5代下。53.道綱母の姪)
付3 「八代集」、「二十一代集」(=八代+十三代)について。
■ 「八代集」
古今和歌集、 後撰和歌集、 拾遺和歌集、 後拾遺和歌集、
金葉和歌集、 詞花和歌集、 千載和歌集、 新古今和歌集。
■ 「十三代集」
新勅撰和歌集、 続後撰和歌集、 続古今和歌集、 続拾遺和歌集、
新後撰和歌集、 玉葉和歌集、 続千載和歌集、 続後拾遺和歌集、
風雅和歌集、 新千載和歌集、 新拾遺和歌集、 新後拾遺和歌集、 新続古今和歌集。
「八代集」は、平安中期〜鎌倉初期 の勅撰和歌集(国家事業和歌集)。
「十三代集」は、鎌倉後期〜室町中期 の勅撰和歌集(国家事業和歌集)。
「八代集」の、
第一代作「古今和歌集」は、
60代醍醐天皇の勅命。 編者は、
29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
第八代作「新古今和歌集」は
後鳥羽上皇(82代天皇)の勅命。 編者は、
87.寂蓮(途中で没)、94.飛鳥井雅経、97.藤原定家、98.藤原家隆、
源通具、六条有家。
「十三代集」の
第一代作「新勅撰和歌集」は、
86代後堀河天皇の下命を受けた97.藤原定家が単独で撰し、上皇の死後も
九条道家・教実父子の後援で編纂事業が引き継がれ、
87代四条天皇期の1235年三月に完成し奏上。
第十三代作「新続古今和歌集」は、
室町幕府第6代将軍足利義教の執奏により、
95代後花園天皇の勅宣を以って権中納言飛鳥井雅世が撰進。
なんと、古今和歌集とつく和歌集は4卷あるんですね。 原→親→族→親族
・古今和歌集
・新古今和歌集
・続古今和歌集
・新続古今和歌集
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