歌人と時代背景4 平安中期

平安時代中期(930年頃〜1060年頃)の歌は、40.喜撰法師 〜 70.参議等 の29首です。 
(66.大僧正行尊、67.周防内侍 は平安後期としました。)

      

40 忍ぶれど色にいでにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで     平兼盛 
41 恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人しれずこそ思ひそめしか    壬生忠見
42 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山浪越さじとは       清原元輔
43 あひみてののちの心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり     権中納言敦忠
44 逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし   中納言朝忠
45 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな   謙徳公
46 由良のとを渡る舟人かぢを絶え 行方も知らぬ恋のみちかな      曾禰好忠
47 八重むぐらしげれる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり    恵慶法師
48 風をいたみ岩うつ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな    源重之
49 みかきもり衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ   大中臣能宣
50 君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな      藤原義孝 
51 かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを  藤原実方朝臣
52 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな  藤原道信朝臣
53 なげきつつひとりぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る 右大将道綱母
54 わすれじの行末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな     儀同三司母
55 滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ     大納言公任
56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな  和泉式部
57 めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月かな  紫式部
58 ありま山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする       大弐三位
59 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな  赤染衛門
60 大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立        小式部内侍 
61 いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな       伊勢大輔
62 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ      清少納言
63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな   左京大夫道雅
64 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木    権中納言定頼
65 恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ    相模
  ( 66.大僧正行尊、67.周防内侍 は平安後期の先頭へ )
68 心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな     三条院
69 嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり         能因法師
70 さびしさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮     良暹法師 


平安時代中期を概観してみます。平安時代中期は年代では、930年頃〜1060年頃。
この期間の天皇はおおむね、61代朱雀天皇〜70代後冷泉天皇です。

●平安時代中期の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(平安時代中期。930頃〜1060頃)   
臣籍降下した家系から、後の「武家の源流」が生まれる。
50代桓武天皇系で桓武平氏、52代嵯峨天皇系で嵯峨源氏、・・・など。
平将門(桓武天皇のひ孫の孫)が関東で力を振るい関東を独自領域化するが朝廷に平定される。
京では、藤原家が天皇の摂関家として力を振るう。
それも影響してか文化面で、純国風文化が絢爛に花開く。
藤原道綱母 『蜻蛉日記』、清少納言 『枕草子』、紫式部 『源氏物語』、・・・など。
10円銅貨に描かれている 『 平等院鳳凰堂 』 は、創建年1052年、開基は藤原頼道(道長の長男)。

( 紫式部は藤原血統、 清少納言は清原血統&40代天武天皇の末裔[10代下]
紫式部は藤原血統
57番紫式部は、27番中納言兼輔[=藤原兼輔]の曾孫(ひ孫)、 & 58番大弐三位の母。
98番従二位家隆[=藤原家隆]は、27番中納言兼輔の9代下 & 57番紫式部の祖父(雅正)の8代下。
・兼輔→雅正→為時→式部→三位。
・兼輔→雅正→為頼→伊祐→頼成→清綱→隆時→清隆→光隆→家隆。
清少納言は清原血統
・62番清少納言 ← 42番清原元輔 ← 清原顕忠 ← 36番清原深養父
・天武天皇→舎人親王→貞代王→(清原)有雄→通雄→海雄→房則→深養父→顕忠→元輔→清少納言
・舎人親王(とねりしんのう、676〜735、差59)は「日本書紀」編集の総裁。


●天皇とその周辺
ここで「平安中期の歌人」とした先頭のお二人(40番平兼盛と41番壬生忠見)の歌は、
「天徳内裏歌合」での決戦歌です(最終の20対戦目・題目は「恋」)。
天徳内裏歌合」は、62代 村上天皇によって行われた歌会。
決戦で負けた壬生忠見はとても悔しんだと言われています。
「忠見は、出世を懸けて詠んだ歌が接戦の末に負けたことを悲観し、
 その後食べ物を受け付けなくなり、そのまま死んだ」という逸話があるほど。
私には「しのぶれど・・・」の方が素直にイメージが彷彿としてくるので圧倒的に良いです。
当時のことは分かりませんが、私には「忠見さん、それほど悔しがるほどの出来ではないですよぉ。
ちょっと懲りすぎなんじゃない」と言った感じです。 ( ← 忠見さん、ごめんなさい。 <(_ _)> )

この時期の百人一首皇族歌人は67代三条天皇一人です。ですが、
この時期にオンパレードする女官女房である女性歌人の裏に、
66代一条天皇が鮮明に浮かび上がってきます。66代一条天皇と67代三条天皇は従兄弟です。
百人一首全体の女性歌人は21人ですが、内11人がこの時期に集中してます。
53番右大将道綱母(=『蜻蛉日記』の著者)〜67番周防内侍です。
56番和泉式部からがほぼ、66代一条天皇の夫人(彰子or定子)に付いた女官女房です。
この期間の百人一首女官女房歌人の中では、清少納言だけが定子の女官女房です。
ここで、彰子は藤原道長の娘。そして、早世する定子は藤原道隆[道長の兄]の娘。
(この辺りのことがよく分かるお話 ⇒ 下記の参考1&2)    
彰子は道長によって、一条天皇と定子の間にねじり込められたとも見える女性ですが結果として、
一条天皇との間にのちの、68代 後一条天皇 & 69代 後朱雀天皇を産んでいます。

53番右大将道綱母(=藤原道綱母・『蜻蛉日記』の著者)は道長の父の夫人です。
54番儀同三司母は道長の兄[道隆]の夫人ですし、一条天皇の早世した后・定子 の母です。
ですので、54番儀同三司母は、62番清少納言が仕えた皇后(定子) の実母ですね。
「儀同三司」は息子・藤原伊周(これちか、974〜1010、差36) の「官名」。
伊周は定子(977〜1001、差24)の兄。「平等院鳳凰堂」を建てた藤原頼道(道長の長男)と同世代。

これらのことからもこの時期の雰囲気がなんとなく伺えますが、
この時期は、藤原家(公家)が天皇の摂関家として「我が世の春」を謳歌した時期。
藤原道長(966〜1027、差61)の次の歌の時期です。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
私などは、「平安中期(930頃〜1060頃)はまさに藤原道長の時代だなぁ」と思ってしまいます。

参考1) 道隆[道長の兄]、定子、清少納言、枕草子、が分かる ⇒ 『枕草子』は定子への鎮魂歌か?
参考2) 母性愛の彰子×野心家の道長、 随筆の枕草子×小説の源氏物語
・『源氏物語』で、光源氏の父親・桐壺帝は、代としては「60代醍醐天皇」に相当します。光源氏のモデルとして、54代仁明天皇の兄弟・源融(14番川原左大臣)や58代光孝天皇(15番歌人)があげられてます。壮年期の光源氏のモデルは藤原道長のようでもあります。紫式部は66代一条天皇期の女官ですから、身近な彰子や定子も結構モデルにしてますね。

関連記事 ⇒ 四子を四天皇へ入内させた道長



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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