歌人と時代背景3 平安前期

平安時代前期(794年〜930年頃)の歌は、8.喜撰法師 〜 39.参議等 の32首です。

      

08 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山とひとはいふなり     喜撰法師
09 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
10 これやこの行くも帰るもわかれては しるもしらぬも逢坂の関     蝉丸 
11 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人のつり舟    参議篁
12 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ      僧正遍昭
13 筑波嶺のみねより落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる     陽成院
14 みちのくのしのぶもぢずりたれ故に 乱れそめにしわれならなくに   川原左大臣
15 君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ      光孝天皇
16 たち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かばいま帰り来む    中納言行平
17 ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなゐに水くくるとは    在原業平朝臣
18 住の江の岸に寄る波よるさえや 夢の通い路人目よくらむ      藤原敏行朝臣
19 難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をすぐしてよとや    伊勢
20 わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢わむとぞ思ふ   元良親王 
21 いま来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな    素性法師
22 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ      文屋康秀
23 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身一つの秋にはあらねど    大江千里
24 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに       菅家
25 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな    三条右大臣
26 小倉山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ    貞信公
27 みかの原わきて流るるいづみ川 いつみきとてか恋しかるらむ     中納言兼輔
28 山里は冬ぞさびしさまさりける 人目も草もかれぬと思へば      源宗于朝臣
29 心あてに折らばや折らむはつ霜の 置きまどはせる白菊の花      凡河内躬恒
30 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし       壬生忠岑 
31 朝ぼらけ有明の月とみるまでに 吉野の里にふれる白雪        坂上是則
32 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり      春道列樹
33 久方の光のどけき春の日に しづこころなく花の散るらむ       紀友則
34 たれをかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに        藤原興風
35 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける       紀貫之
36 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ      清原深養父
37 しらつゆに風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける    文屋朝康
38 わすらるる身をば思わず誓ひてし 人のいのちの惜しくもあるかな   右近
39 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき      参議等


平安時代前期を概観してみます。平安時代前期は年代では、794年〜930年頃。
この期間の天皇はおおむね、50代桓武天皇〜60代醍醐天皇です。

●平安時代前期の天皇 在位期間と系図
  


●時代概要(平安時代前期。794〜930頃)   
50代桓武天皇、都を平安京に構える。
仏教がより政治と結びつき一層社会に浸透。  遣唐使 帰国僧 最澄・空海の活躍。
国風文化の萌芽。 奈良時代の唐風色濃い天平文化から、発展。
「竹取物語」「伊勢物語」「古今和歌集」()「土佐日記」など書かれる。
の撰者は、29.凡河内躬恒、30.壬生忠岑、33.紀友則(途中で没)、35.紀貫之。
「土佐日記」は紀貫之による日本初のひらがな文書(紀行文風日記)。
600年から続いた大陸文化の吸収(遣隋使・遣唐使)が、菅原道真(=24.菅家)の提言で終了。

31.坂上是則(800年代末〜930、差40〜50?) は、坂上田村麻呂(758〜811、差53)の4代下。
   田村麻呂 → 浄野[三男]or 広野[次男] → ○○ → 好蔭 → 是則
   是則の生まれを仮に888年とすると、
   田村麻呂の生まれ年758年の130年後なので、4代下というのは理にかなってる。

坂上田村麻呂(758〜811、差53) … 「征夷大将軍となり東北を制圧した」
793年に陸奥国の蝦夷(えみし)に対する戦争で、
     大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。
     弟麻呂(おとまろ)の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、
801年に敵対する蝦夷を討って降した。
802年に胆沢城(いさわじょう・岩手県奥州市)、
803年に志波城(しはじょう・岩手県盛岡市)を築いた。
810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。
平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生む。
近代まで、「文の菅原道真」と「武の坂上田村麻呂」は、文武のシンボル的存在とされた。
お遊び ⇒ 親子で学ぶYouTube 平安時代全期(794〜1192)の 16人

蝦夷(えみし)
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に国力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。 ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならない。


●天皇とその周辺
50代桓武天皇が京に都をかまえて平安時代がはじまります。
50代桓武天皇のあとを三人の息子がそれぞれ即位します。
このうち51代平城さんと52代嵯峨さんが皇位に絡んで揉め事を起こします(薬子の変)。
歌番号14の川原左大臣(=源融)は、52代嵯峨天皇の息子です。
歌番号16&17の在原兄弟は、51代平城天皇の孫です。
「在原」は、「薬子の変」で皇統が51代平城天皇から52代嵯峨天皇に移ったため、
51代平城さんの孫の代で臣籍降下して生まれた「氏」です。
「薬子の変」のあとは静かに親から子、子から孫へと皇位が継承されてます。
57代陽成天皇は7才で即位15才で退位してます。
元良親王は57代陽成天皇の退位後の子です。
57代陽成天皇は在位中、正式な妃の入内がありません。
祖父の兄弟の58代光孝天皇に譲位してます。
12番僧正遍昭 と 21番素性法師は、50代桓武天皇の孫&ひ孫です。

28番源宗于朝臣は、58代 光孝天皇の孫。 ← 是忠親王 ← 光孝天皇
39番参議等(源等[ひとし])は、52代 嵯峨天皇のひ孫。 ← 希 ← 弘 ← 嵯峨天皇



小倉百人一首の時代範囲は、西暦660年ごろ〜1240年ごろ。


・古代 飛鳥後期(約 50年)、
・古代 奈良時代(約 80年)、
・古代 平安前期(約130年)、
    平安中期(約130年)、
    平安後期(約130年)、
・中世 鎌倉前期(約 50年)。


小倉百人一首は、
古代から中世初期にわたる
約600年間を凝縮した歌集
とも言えます。

1. 百歌人の生没年分布             2. 天皇一覧(飛鳥〜鎌倉)  3. 紀元〜現在 焼付けイラスト
        
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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