大伴家持はどんな人? 伴造意識? 「海ゆかば」 は 家持の作?

百人一首の 飛鳥時代 & 奈良時代 の歌人のことを調べていたら、「万葉集」に辿り着いた。
万葉集に辿り着くと、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴家持(中納言家持)、といった人が
万葉歌人と言われていることを知った。そこで、これらの人の事を少し詳しく見てみると、結構面白い。

百人一首歌人 生没年概略図

飛鳥時代  570頃〜 710年  1〜 3番  (= 38代天智天皇、 ←の娘41代持統天皇、柿本人麻呂)
奈良時代  710年〜 794年  4〜 7番  (= 山部赤人、猿丸太夫、中納言家持、阿倍仲麻呂)
平安前期  794年〜 930頃  8〜39番  (39番は、参議等=源等)
平安中期  930頃〜1060頃 40〜65番(=相模) + 68三条院、69能因法師、70良暹法師
平安後期 1060頃〜1192年 66大僧正行尊、67周防内侍 + 71〜92番  (92番は、二条院讃岐)
鎌倉時代 1192年〜1333年 93〜100番  (99、100番は、82代後鳥羽天皇 &その子 84代順徳天皇)



上記万葉四歌人 など の生没年(没年順)
● 柿本人麻呂(かきのもとひとまろ、660頃〜720頃、差60) 3番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴旅人(おおとものたびと、  665年〜731年、差66)
● 山上憶良 (やまのうえのおくら、660頃〜733頃、差73)      遣唐使 にも
● 山部赤人 (やまべのあかひと、 不詳 〜736頃   ) 4番歌人 三十六歌仙  歌聖
● 大伴古麻呂(おおとものこまろ、 不詳 〜757    )      遣唐使 に2度
● 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、  698 〜770、 差72) 7番歌人 遣唐使 唐で高官に 帰日実らず
● 大伴家持 (おおとものやかもち、718 〜785、 差67) 6番歌人 三十六歌仙     中納言家持

大伴家持に関する簡単系図
@大伴長徳 → A(五男)大伴御行  → ●大伴古麻呂
      → A(六男)大伴安麻呂 → B大伴旅人  → ●大伴家持
大伴古麻呂は、家持の父 の従兄弟。
大伴旅人は、 家持の父。



そもそも「大伴」って、どんな「氏」なのでしょう?
海ゆかば:大伴家持の伴造意識(万葉集)
http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakmochi.umiyukaba.html
の内容を一部抜粋させていただきます。
45代聖武天皇(※1)は、当時(※2)の諸々の忌事を憂え、救いを仏教に求めた。そして、仏教布教のシンボルとして東大寺大仏の建立を始める。そのさなかに、奥州で金が発見され、大仏建立のために寄進されるということがおきた。喜んだ聖武天皇は、東大寺に赴いて、宣命を発した。その中で、黄金の発見が皇祖の恵であることを述べ、人民にその恵を分かち与えるとともに、臣下の労をねぎらった。その際に、大伴、佐伯の二氏に対して、天皇への忠誠をあらためて訴えた。

(※1&2) 45代聖武天皇  ⇒  奈良時代の象徴的天皇
奈良時代  710〜794、差84年。  およそ、43代元明天皇〜49代光仁天皇の期間
生没年   701〜756、差55年。
在位期   724〜749、差25年。   (目安:23才〜48才)
東大寺仏像(東大寺盧舎那仏像、奈良の大仏)  制作開始〜完成(開眼供養会)の年差=7年
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作開始
      天平勝宝 4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。


大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、特別な家柄であった。物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきたのである。天皇は、この内乱の危機をはらんだ時代を憂えて、あらためてことさらに、両氏へ忠誠を求めたのである。その宣命の中に、次のような言葉がある。

大伴佐伯の宿禰(すくね)は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(続日本紀)

「海行かば水浸く屍山行かば草生す屍」の一節は、大伴佐伯両氏の間に伝わっていた戦闘歌謡であった。

この時、家持は越中にあったが、使者を通じて宣命を知り、また贈位を賜った。感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えた。この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の、「伴造意識」が鮮やかに表れている。我々はそれを読むことによって、「古代における氏族の意識の一端」に触れることができる。

ところで、「伴造意識」って?
まず、「伴造」を調べてみました。
「伴造」、読みは「とものみやつこ」。  「伴」=とも 「造」=みやつこ
連(むらじ)とも重なり、また連の下でヤマト王権の各部司を分掌した豪族。
伴造には、秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)など代表的な帰化氏族がある。 他に、
弓削(ゆげ)、矢集(やずめ)、服部(はとり)、犬養(いぬかい)、舂米(つきしね)、倭文(しとり)などの氏がある。
彼らは、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(かばね)を称した。

つまり、「伴造意識」とは。  ( ← こちらの読みは「ばんぞういしき」かも知れません)
上の「伴造(とものみやつこ)」から推察するに、「伴造意識」って、「帝(主君)に対する忠誠心」でしょうね。


大伴家持の歌の例
百人一首の6番  家持の最終職位は「中納言」
かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける
万葉集 巻18−4094  (長歌)
葦原の瑞穂の国を天下り知らしめしける.......

この長歌の2/3ほどの所で次の下りがある。
  海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね) 山行かば 草生(む)す 屍
  大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじ

  現代語訳)
  海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、
  大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない。

こういう歌を歌う気持ちを「伴造意識」って言うのでしょうね。
この長歌の全文は、wikipediaの「海ゆかば」にも 現代語訳と共に 載っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%A1%8C%E3%81%8B%E3%81%B0#.E5.8E.9F.E6.AD.8C
万葉集 巻20−4516  万葉集の最後の歌  & 万葉集は全20巻
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け吉事
http://www.manyoshu.jp/contents/001-20-4516/


(参考サイト&ページ)
「万葉集を読む」
http://manyo.hix05.com/index.html
「万葉集を読む」 の 大伴家持
http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakamochi.index.html
「万葉集を読む」 の 万葉の世紀(万葉集と大伴家持)
http://manyo.hix05.com/intro.html
「万葉集を読む」 の 海ゆかば:大伴家持の伴造意識(万葉集)
http://manyo.hix05.com/yakamochi/yakmochi.umiyukaba.html


YouTube 「海ゆかば」

海行かば 水漬(みづ)く 屍(かばね)  山行かば 草生(くさむ)す 屍(かばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ  顧(かへり)みはせじ

YouTube 「海ゆかば」  雅楽版



トリヴィア 日本国国歌 「君が代」
  歌詞の原形は、平安時代前期に編纂された 『古今和歌集』(※) に載っている歌。
  「君が代」に最初に曲をつけた作曲者は英国人?

※ 最初の勅撰和歌集。60代醍醐天皇(在位897〜930、差33年) の勅命によって編まれた。
  平安前期の延喜5年(905年)に成立、同年4月18日(5月29日)に醍醐天皇に奏上。
  撰者は紀貫之、紀友則(編纂途中で没)、壬生忠岑、凡河内躬恒。
  『万葉集』から、撰者らの時代までの140年間の名歌を集めている。 『古今集』とも言う。

雅楽による 君が代



最後に、wikipediaの「大伴家持」を整理してみました。

大伴家持 ⇒ 生没年、718年頃〜785年10月5日。67才頃に没。全くの奈良時代の人。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家である。
祖父・安麻呂、父・旅人と同じく家持も政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

718年 誕生。
730年 父旅人の任地であった太宰府から帰都。
746年 越中(≒富山県)に赴任。751年まで。この間に220余首の歌を詠んだ。
751年 都に戻る。
755年 難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながる。
758年 因幡に赴任。
759年 1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。 (巻20-4516)
      ⇒ http://www.manyoshu.jp/contents/001-20-4516/
764年 薩摩に赴任。(757年の藤原仲麻呂暗殺計画立案の嫌疑のため)
770年 帰都。48代称徳天皇が没すると各種要職に就く。&上総・伊勢と大国の守を歴任。
782年 氷上川継の乱への関与を疑われて一時的に解官され都を追放される。
785年 陸奥国で没。 (生没年差=67年)。
      陸奥按察使持節征東将軍の職務のため陸奥国に滞在していたため。
      没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、
      家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に配流となった。

家持生没年、718年頃〜785年10月5日。67才頃に没。全くの奈良時代の人。
806年 罪を赦され、位も従三位に戻された。

これを見ると、大伴家持って色んな所を赴任した(赴任させられた)人だと分かる。それと、当時すでに今で言う「都道府県庁」的なものが日本各地に置かれていたんだなと分かる。少なくとも、家持の情報からは、東北・北陸・山陰・九州(福岡地域)・九州(鹿児島地域)、に地域統治の施設があったんでしょう。

小倉百人一首と日本史の照らし合わせ


posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の中の万葉歌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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