百人一首歌人の中の遣唐使。 阿倍仲麻呂、参議篁、菅家。


関連歌)
01 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ      天智天皇
02 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山         持統天皇
03 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂
04 田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ    山部赤人
05 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき       猿丸太夫
06 かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける   中納言家持
07 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも       阿倍仲麻呂
08 わが庵は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山とひとはいふなり     喜撰法師
09 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町
10 これやこの行くも帰るもわかれては しるもしらぬも逢坂の関     蝉丸
11 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人のつり舟    参議篁
12 天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ      僧正遍昭

24 このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに       菅家


百人一首の歌人のなかには、完全な遣唐使(行って帰って&日本で立身出世)はいません。
遣隋使・遣唐使の時代は、万葉時代とも言える飛鳥・奈良時代と、平安時代前期です。

飛鳥時代 570頃〜710
奈良時代 710 〜794    この時代の文化 ⇒ 天平文化    
平安前期 794 〜930頃   平安時代は、794〜1192。
遣隋使は、600年から。 5回。 小野妹子が2回渡る。
遣唐使は、630年から。 839年が最終(19回目)。
遣唐使は、894年に菅原道真の提案により終了。 船も出ず。


そこで、百人一首の遣唐使関連歌人として、5人あげてみます。
6番歌人=中納言家持(大伴家持)、7番歌人=阿倍仲麻呂、9番歌人=小野小町、
11番歌人=参議篁(小野篁・おののたかむら)、 24番歌人=菅家(菅原道真)。

●6番歌人=中納言家持(大伴家持)は遣唐使ではありません。が、「大伴旅人(=家持の父)の甥」の大伴古麻呂が二度遣唐使を勤めています。大伴古麻呂は、二度目では「遣唐副使」という大役を果たしています。
●7番歌人=阿倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡り、唐で出世し唐の高官となった人。ただし、仲麻呂は「鑑真が渡日を果たしたときの遣唐使船団の船」で帰途にはつきました。所がこの帰船団は暴風に遭い、仲麻呂の船は今のベトナム方面へ流されました。結局、仲麻呂は唐の地で没しました。鑑真さんの船、&「奈良の大仏建立」に貢献した吉備真備(真備は、二度目の遣唐使&この遣唐使節団の遣唐副使)の船はなんとか日本に辿り着く。
●9番歌人=小野小町は、伝説的な女性&伝説的歌人で、小野小町としては遣唐使と全く関係ありません。ただ、信憑性は低いですが小野小町が小野篁の孫という説があります(ココ参照)。ここで、「遣唐使の前の使節」である「遣隋使」の重要なメンバーに小野妹子(男性。聖徳太子の使いで隋に二度渡る)がいます。すると、小野篁は小野妹子の末裔(5代下)ですので、小野小町も「遣隋使の代表格である小野妹子」の末裔(7代下)と言う事になります。
一応、wikipediaに小野氏の系図が有ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B0%8F
●11番歌人=参議篁は小野篁です。篁が小野妹子の末裔(5代下)であることは確かなようですが、小野小町の祖父かどうかは不確かです。篁は遣唐副使でしたが難癖を付けて遣唐使船に乗らなかった人です。結局それがため流罪(どちらかというと左遷?=隠岐への赴任)にあった人です。参議篁の11番歌は、左遷先に向かうときの船上で読んだ歌です。ただし篁は、最終的には左遷先から都に戻されてます。
●24番歌人=菅家は菅原道真です。実はわたし、上の小野篁という人はサボりではなくけっこう先見の明のある人だったのではないかと、思っています。というのは、飛鳥時代に聖徳太子[厩戸皇子]が始めた遣隋使(初回=西暦600年(※1))から数えて、有効回数なら約240年間、終了宣言までなら約300年間、続けた遣使(遣隋使・遣唐使)という制度(※2)は、篁がサボタージュした回次が事実上の最終派遣となるからです。次の回次(894年)には、菅原道真(845〜903、58才)が「遣唐使は終了」を提案し認められますので。これは、このころの日本が「もう唐から学ぶよりも自力で国を整えていこう」という意識が確立していた事を示しているのでしょう。その後の日本は、仏教や文学文化建築などオリジナル色を有しているものが芽生え発展していきます。
●蛇足
参議篁(11番歌人)がサボタージュしたのは、第19次遣唐使。この第19次の前の、第18回次遣唐使で唐に渡った注目すべき二人の留学僧がいる。それは、最澄と空海。空海は「書」の達人。『弘法も筆の誤り』の弘法は空海のこと。弘法=弘法大師空海。
(※1) 
630年はまだ元号がない。初の年号は「大化」。645年。
(※2) 
遣隋使は、600年から。 5回。
遣唐使は、630年から。 839年が最終(19回目)。
遣唐使は、894年に終了宣言。船も出ず。


小倉百人一首 百歌人の生没年分布図



  
遣唐使 要約  (各回次の往復年&派遣隻数、その他)
By 20回説。 630〜894年。 最終派遣は838年。


01回 往630 復632      唐使・高表仁 来日、遣隋使だった僧・旻(みん)帰国。
02回 往653 復654  2隻  第2船が往途で遭難。
03回 往654 復655  2隻  高向玄理は帰国せず唐で没。
04回 往659 復661  2隻  第1船が往途で南海の島に漂着し、大使・坂合部石布が殺される。

05回 往665 復667      唐使・劉徳高を送る。唐使・法聡 来日。
06回 往667 復668      唐使・法聡を送る。唐には行かず?
07回 往669 復?       第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか。

08回 往702 復704  4隻  注目遣使) 山上憶良
09回 往717 復718  4隻  注目遣使) 阿倍仲麻呂吉備真備玄ム阿倍仲麻呂は唐に残る。
10回 往733 復735  4隻  注目遣使) 大伴古麻呂、普照(ふしょう)、栄叡(ようえい)

11回 往746          停止。
12回 往752 復754  4隻  藤原清河(大使)・
               吉備真備(副使。9回遣使)・大伴古麻呂(副使。10回遣使)。
               復途で唐の高僧・鑑真 来日(by 古麻呂の船)。
               おそらく、普照(ふしょう)古麻呂の船に乗っていたのだろう。
               真備 の船もなんとか、日本に辿り着く。
               阿倍仲麻呂(9回使)が大使船に乗って帰国の途についたが、
               大使船は暴風で今のベトナム方面へ流される。仲麻呂、唐で没。

  
『天平の甍』 (著 井上靖) は この「10回〜12回」の時期の物語。 
『天平の甍』 ⇒ 初刊 1957年12月。作者 訪中後に加筆。新潮文庫版、2005年に改版。
物語概要(ほぼ史実):
第10次遣唐使で大陸に渡った留学僧たちの物語。
「高僧」を唐から招くという命を受けた若い「留学僧」の運命を描く。
・高僧  → 出家者に正式な戒を授けるための伝戒師。 → 結局、鑑真(がんじん)。
・留学僧 → 普照(ふしょう) と 栄叡(ようえい)。
普照と栄叡は唐に渡って「高僧」を探し続ける。
探し続けて10年目、ついに二人は「高僧」(=鑑真)に出会う。
その後、普照栄叡鑑真たちは幾度も日本に渡ることを試み続ける。
試み続けること10年。この間、栄叡は病にかかり唐の地で没するが、
最終的に、「高僧」の日本への招き入れを果たす。
『天平の甍』 YouTube動画15分割でアップされてる。(民放の「月曜ロードショー」のビデオ録画版)
まずは、1/15がこれ ⇒ http://www.youtube.com/user/kurumi1972#p/u/9/e6MF_0PE5qM

『天平の甍』でも描かれている、鑑真の来日(754年[=帰船年]・12回次)。
その半世紀後、最澄・空海が留学僧として唐に渡る(804年・18回次)。

13回 往759 復761  1隻  渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。
14回 往761          船破損のため停止。
15回 往762          唐使・沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止。
16回 往777 復778  4隻  大使・佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原 両副使は更迭。
               第1船、帰途で遭難。副使・小野石根、唐使・趙宝英 死亡。
17回 往779 復781  2隻  唐使・孫興進を送る 

18回 往804 復806  4隻  注目遣使)最澄空海
               往途、第3船、肥前松浦郡で遭難。
               石川道益、唐で没。

               ところで、
               最澄はこの回次船で帰ってるけど、
               空海はこの回次の船で帰ってるのかなぁ?
               ↓ これに関し不確かな確認資料 @〜B
               ↓ 空海は最澄と同じ船団で帰ったのか?
               @ http://www.weblio.jp/content/%E7%A9%BA%E6%B5%B7
               A http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage60.htm
               B http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage48.htm
               ↓ 次の資料で一応、納得。涙。(空海は806年8月 太宰府に 帰国)
               空海年表 の
               806年1月 空海の帰国申請
               ♂ に 帰国する場合、日本の使節を通じ唐の皇帝の許可を得must 云々
               806年8月 太宰府での空海  明州を発ち帰国。大宰府に着く

[上記のAの 下3分の1文郡]
この時、空海にまたまた幸運がやってきました。
空海を送り込んだ遣唐使の次の遣唐使の国使が長安にやってきたのです。
高階真人遠成(とおなり)という高官です。 ← この人はいつどの船で入唐したの??? (涙)

空海は遠成に日本に帰りたい、橘逸勢(はやなり)と共に「この業績を早く母国に伝えるのが私の務めである」と力説したと思われます。二十年の留学期間を朝廷より決められていた空海は「国禁」を犯してまで母国に帰って「この密教の体系を伝えたい」と思ったのは必然的なことです。事実、この遣唐使と一緒に帰国しなかったら、空海の生涯は唐で閉じられていました。次の遣唐使がやってきたのは837年、つまり空海の「高野山入定3年後」にあたる年なのです。

空海がやってきた遣唐使団の「日本出発一年延期」といい、死直前の恵果からの法伝授、突然の遠成の来唐といい、本当に幸運を味方につける空海です。

丁度その頃、日本では空海より一足早く帰国した最澄が、国費で集めた経典の中に「密教の断片」をみつけます。これに朝廷は驚喜し、彼の最大の保護者である桓武天皇は、最澄を庇護し、最澄に「仏教界最高のリーダーとして指揮をとり、諸派の仏教僧侶を集め、灌頂を与えよ」との命を発します。 つまり最澄は、密教の「国師」と仰がれる立場に成ったのです。 桓武天皇は、当時の仏教の最先端である「密教」の、神秘的な力を、自らの権力安定に利用しようとしたのでしょう。

これに対し南都六宗(奈良仏教界)は、最澄そして平安朝廷に強い反発を抱きます。もちろん日本にいる彼らは、一留学生の身分の空海が密教最高位の阿闍梨の地位になっていること、そして彼が日本に帰国することなんて、知る由も有りません‥

なるほど〜。 ふむふむ〜。それにしても・・・、
高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)は18回次遣唐使の中の一人で、
当初から次の遣唐使の国使という立場で入唐していのだろうか・・・。 わからん!
ひとり使者としてプレジャーボートで渡ったわけでもあるまいに・・・
「遣唐使船団」とはまた別に、こぢんまりとした「使節船」も逐次出してたのだろうか・・・。


↓の @&A で解決!
@ http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/eurail/pilgrim/nenpyou-kuukai.htm

A http://urano.org/kankou/topics/kuukai/index.htmlの次の箇所。
806年(延暦25年)3月17日桓武天皇が崩御し、第51代平城天皇が即位した年、新皇帝の即位を祝う使節として高階遠成(たかしなノとおなり、真人)らが長安にやって来たので、留学期間20年の短縮を請う書簡を渡して許され、同年(大同元年)4月空海は帰国を前に越州(えんしゅう、現在の浙江省紹興)で経典を求め、8月空海と橘速勢が留学期間を2年に短縮して、遣唐使船に高階遠成らと共に便乗し、帰国の途に着きました

どうやら、@の記述から
最澄は、平安京を開拓した50代桓武天皇のお気に入りとなったらしい。
空海は、この後の「薬子の変」(810年)で嵯峨陣営の勝利を祈願したことなどにより、
桓武天皇の子 52代嵯峨天皇のお気に入りとなっている。


19回 往838 復839  4隻  藤原常嗣(大使)・小野篁(副使)。
               836年・837年と連年渡航失敗。
               その後小野篁、病と称し行かず流罪。
               帰途、新羅船9隻を雇い帰る。
               第2船、南海の地に漂着。
               知乗船事・菅原梶成、大隅に帰着 

20回 894年          菅原道真(大使)。
               菅原道真の進言により遣唐使を廃止決定。
               菅原道真の大使の任は解かれず。



小倉百人一首と日本史の照らし合わせ

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