漢字の伝来時期、万葉仮名・カタカナ・ひらがなの創生過程

小倉百人一首で、歌番号の始まり頃の 万葉歌人()の歌はいったい、
「オリジナルではどういう文字表現だったんだろう」と、最近私は関心を持ち始めました。
そんな関心を持ち始めてみると、そもそも漢字の伝来時期や
カタカナ[片仮名] ・ ひらがな[平仮名] の 発生時期 & 形成過程 は
どうだったんだろう、と思い始めました。   それで、少しネット徘徊してみました。
すると・・・「なるほどなぁ」と一人勝手に納得したのでした。 <(_ _)>
) 
万葉歌人 ⇒ 「万葉集」の時代、主に、おおよそ600年代&700年代、飛鳥&奈良時代、の歌人。
百人一首の歌人で言うと ⇒ 1番天智天皇〜6番中納言家持[=大伴家持]あたりの範囲の人。

参考)  小倉百人一首 1番歌〜7番歌
01 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ      天智天皇
02 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山         持統天皇
03 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む   柿本人麻呂
04 田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ    山部赤人
05 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき       猿丸太夫
06 かささぎのわたせる橋におく霜の しろきを見れば夜ぞふけにける   中納言家持
07 天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも       阿倍仲麻呂


この7首の内、02番 持統天皇歌、のオリジナル歌と思われる歌が YouTube にあります。

・万葉表現 
   春過而 夏来良之 白妙能  衣乾有 天之香来山   持統天皇   万葉集 巻1−28
・現代表現
   春過ぎて 夏来るらし 白袴の 衣乾したり 天の香具山  ( ← 上のYouTube準拠表現)


小倉百人一首 百歌人の生没年分布図



この関心を持って、私がネット徘徊で出会った、私にとって面白かったサイト、4サイト紹介します。
1. 万葉仮名一覧 (万葉仮名の例)
2. 漢字の伝来:呉音と漢音
3. 漢字と格闘した古代日本人
4. 日本語の起源
(注) 上の4見出しは、サイト名もありますが、私のフィーリングで付けたモノもあります。



1.万葉仮名一覧 (万葉仮名の例)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/kana/home.html
雑感)
冒頭の意図で色々とネット徘徊していたら、『万葉仮名』という表現を頻繁に目にした。しかしそれらの表現を目にしても、「そういうものがあったのか」と思う程度で、それが実際にどういうモノなのか余り強く意識しなかった。所が、このサイトを見て、「あぁなるほど。『万葉仮名』ってこういう漢字のことを言っているのか」と納得したのでした。


2.漢字の伝来:呉音と漢音
http://blog.hix05.com/blog/2009/05/post-1002.html
要約と雑感)
第〇波  伝来時期の目安 ⇒ 弥生時代中期〜古墳時代 
漢字の伝来は紀元1世紀頃から徐々に行われた。
このひたひたとした伝来の流れが次の「大きな二つの波」となる。
第一波  伝来時期の目安 ⇒ 古墳時代末期〜飛鳥時代
5世紀頃から7世紀にかけて朝鮮半島からの人によるもの。 「呉音」
第二波  伝来時期の目安 ⇒ 飛鳥末期、奈良、平安初期
7世紀から8世紀に、遣隋使・遣唐使・留学僧が持ち帰ったもの。  「漢音」

 「呉音」は百済からやってきた帰化人たちがもたらしたもの。これは第一波での伝来当時、百済の知識人たちが、六朝時代を通じて南朝文化と深いかかわりを持っていた(※)からであろう。

 「漢音」は遣隋使・遣唐使たちが持ち帰ったもの。「漢音」は唐の長安(今の西安)を中心に使われていた。唐は隋の後を受けて中国全土を統一した王朝。唐はまた、さまざまな面で全土統一にこだわり、言語もその例外ではなかった。日本の遣隋使・遣唐使たちが接したのは、そういう言語文化「漢音」だった

 そのような背景のもと、日本の朝廷は、唐の文化政策に倣い「漢音」を尊重し、漢字の発音はすべて「漢音」にしようとした。しかし、それは実らなかった。「呉音」がすでに、簡単に排除できないほど日本の文化に定着していたからである。この「漢音」と「呉音」のせめぎあいを物語るのが「日本書紀」と「古事記」の違い。
日本書紀」はすべて「漢音」を用いて書かれている。
古事記」の歌謡はすべて「呉音」を用いて書かれている。
これは、「呉音」が深層にあって、その上に「漢音」が乗ったのだろうと示してる。

 で、わたしの気ままな雑感。
現在、漢字の音読みに複数パターンあるのは、「呉音」と「漢音」の影響かぁ。
なるほどぉ〜、とわたしはひとり勝手に納得したのでした。
「呉音」は上の「第一波」のなごり?
「漢音」は上の「第二波」のなごり?

(※) 
六朝時代を通じて南朝文化と深くうんぬん の
「六朝時代」と「南朝文化」 について。

六朝時代 ⇒ 280〜589年。
建康(=今の南京)に都をおいた六朝 の時代。
280年、三国時代の「呉」の滅亡、から
317年、晋時代の「東晋」の成立、までと
589年までの、南北朝時代をふくめた時期。
「六朝時代」は中国における宗教の時代。
この時期に興隆した宗教を基に、花開いた。
江南 (長江。下流域は揚子江 の南側域) の開発が一挙に進み、
後の「隋」や「唐」の時代に、江南は中国全体の経済基盤となった。
「南朝」では、政治的な混乱とは対照的に 文学や仏教が隆盛をきわめ
「六朝文化」と呼ばれる貴族文化(≒南朝文化)が栄えた。
南北朝時代 ⇒ 439〜589年。
中国の王朝が南北並立していた時期。
439年、北魏が華北を統一、から
589年、隋が中国を再び統一、まで。
この時期、華南には「宋、斉、梁、陳」の4つの王朝が興亡した。これらの王朝を「南朝」と言う。
南朝文化
その南朝において、実権を奪われた貴族たちが 蓄財・文化発展に走り、萌芽した貴族趣味文化。

メモ1) 中国の歴史
・・・ ⇒ 周 ⇒ 漢 ⇒ 三国 ⇒ 晋 ⇒ 南北朝 ⇒ 随 ⇒ 唐 ⇒ 五代十国 ⇒ 宋 ⇒ 元 ⇒ 明
  ⇒ 清(1616〜 1616=江戸14年=2代秀忠=慶長の次 元和2年=明治維新の252年前 )
  ⇒ 中華民国(1912〜 1912=大正2年 )
  ⇒ 中華人民共和国(1949〜 1949=昭和24年=終戦の4年後 )

「漢音」の「漢」は、「周」の次の「漢」?
「呉音」の「呉」は、「漢」の次の「三国」 (魏、呉、蜀) の内の 「呉」?
「隋」は、「遣隋使」の「隋」。
「唐」は、「遣唐使」の「唐」。
「元」は、「元寇の役」の「元」。  文永の役(1274)& 弘安の役(1281)

阿片戦争」=1840[日本は 12代家慶]。 清×英。 英の横暴に清、苦汁を飲まされる。日本は危機を感じる。
日清戦争」=1894[明治27年]。
日中戦争」=1937[昭和12年]。日華事変とも。支那事変とも。
       この日中戦争において、1937年12月に南京陥落。
       南京陥落後、6週間にわたって日本軍が為したとされる出来事が、南京事件(又は南京虐殺)。
       虐殺うんぬんはともかく、論争されている出来事の時期はキッチリ覚えておこう。 p(・∩・)q

メモ2) 日本の歴史
1. 日本の歴史区分                         2.百人一首期の歴史概観メモ

  


3.漢字と格闘した古代日本人
外来語を自在に取り込める開かれた国際派言語・日本語。漢字との国際的格闘を通じて作られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog221.html
メモ) ↑の目次ページ ⇒ 国柄探訪 ↓
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/JOG_Guide2.htm
&若干それるけれど、「漢字の浸透」と「日本の技術」に関してなんとなく似たものを感じた関連記事。
⇒ 国柄探訪 日本の技術の底力
幕末の日本を訪れたペリー一行は、日本が工業大国になる日は近いと予言した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog274.html


4.日本語の起源
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.html
この「日本語の起源」のサイト内容は次のようになっています。
・韓国語と日本語
  その1
  その2
  その3
・カタカナとひらがな
  その1
  その2
  その3

この内私が面白かったところ、4箇所を一部抜粋してみます。
( 全文は ⇒ http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.html )
(1) 紀貫之は、ネットオカマのブロガーだった?
(2) カタカナの成り立ちと吉備真備(←奈良時代の人)
(3) ひらがなの成り立ちと弘法大師空海(←平安初期の人)
(4) 渡来人・帰化人・今来の人 について (日本の原始期・古代期を全般的に眺めてみて)

(注) この4つの見出しタイトルは私のフィーリングで勝手につけたモノです。


(1) 紀貫之は、ネットオカマのブロガーだった?
・カタカナとひらがな  その2 一部抜粋


ひらがな万葉仮名 の代わりの文字 ですから、最初の頃はひらがなだけで用いられていました。 やがてその書きやすさから男性の間にも普及するようになり、カタカナと同じように、漢字と一緒に用いられるようにもなります。 そして「平易な、あるいは非公式な平素の仮名」という意味から、「片仮名」に対して「平仮名」と呼ばれるようになったとされています。 「をとこもすなる日記といふものを、をんなもしてみむとてするなり」と、ネットオカマの元祖のような紀貫之が、女性を装って書いた「土佐日記」は、日本初のひらがなで書いた日記文学として有名です。


ここで、紀貫之に関してなど、補足。
35 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける     紀貫之

■紀貫之(きのつらゆき、870頃〜945、没年齢≒75才)
平安時代前&中期の人。 
紀友則(33番)の従兄弟。
当代一の歌人で、『古今集』の代表的選者。

Wikipediaで『土佐日記』を概観してみると次のようなことが書いてます。

 紀貫之(870頃〜945、没年齢約75才)が土佐の国から京まで帰京するさいに起きた出来事や思いなどを書いた日記。935年(承平5年)頃の作。
 930年(延長8年)から934年(承平4年)土佐の国の国司だった貫之が、任期を終えて土佐から京へ戻るまでの55日間の紀行を、女性に仮託して仮名文で綴った。57首の和歌も含まれている。 中心となるのは土佐国で亡くなった愛娘を思う心情、そして行程の遅れによる帰京をはやる思いである。
 日本文学史上初めての「日記文学」。紀行に近い要素ももっていた。その後の仮名による表現、特に女流文学の発達に大きな影響を与え、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』などが後に著される。日本文学史上初めてジョーク、駄洒落などを用いたことも特筆される。

 『土佐日記』に関して少しだけ立ち入って書いた「このブログ中の記事」があります。
  ⇒ 「紀貫之が阿倍仲麻呂の歌を詠む」 です。

参考)
蜻蛉日記(かげろう) ⇒ 著 藤原道綱母(53番 右大将道綱母←道長の父[兼家]の夫人)
和泉式部日記    ⇒ 著 和泉式部 (56番 歌人)
紫式部日記     ⇒ 著 紫式部  (57番 歌人)
更級日記(さらしな) ⇒ 著 菅原孝標女(※)

 菅原孝標女(ふじわらのたかすえのむすめ)
菅原道真の5代下。4代下の菅原孝標の次女。
母の異母姉は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。
『更級日記』は、作者の
13歳の寛仁4年(1020年)から、52歳頃の康平2年(1059年)までの
約40年間の回想録。


(2) カタカナの成り立ちと吉備真備(←奈良時代の人)
・カタカナとひらがな  その1 一部抜粋


カタカナは、奈良時代後期の天平勝宝年間(西暦749-756年)に、吉備真備(695〜775≒80)が50音図と共に選定したと伝えられています。 しかしこれはあくまでも伝承で、実際には当時の多くの学者が協力して選定したと思われます。 そして「片仮名」という呼び名は、漢字の一部を取って作ったため、「片方だけの仮名(仮の文字あるいは借りた文字)」からきているとされています。

カタカナは漢文を訓読するための補助文字として作られた文字で、原則として漢字と一緒に使用され、カタカナだけで文章が書かれることはありませんでした。 そして、当時の日本では漢文を公式記録用の文字体系として用いていましたから、カタカナも公式補助文字として位置づけられ、主として公式の文章や学問的な堅い内容の文章に用いられました。


現在でも法律などのお堅い文章には漢文調の漢字+カタカナ文が用いられていますが、これは漢文とカタカナが公式文字体系だった名残です。


(3) ひらがなの成り立ちと弘法大師空海(←平安初期の人)
・カタカナとひらがな  その2 一部抜粋


ひらがなは、カタカナ選定の少し後、平安時代前期弘法大師 空海(774〜835≒61)が万葉仮名の草書体から作り、同時にその普及のために「いろは歌」も作ったとされています。 しかしこれも伝承にすぎず、実際には色々な人々の手によって作られたと思われます。 奈良時代後期から平安時代初期にかけて、和歌などの非公式な文章には、万葉仮名を草書体にした「草(そう)」という万葉仮名が用いられることが多くなります。 そして草をさらに簡略にしたものを「女手(おんなで)」と呼び、主として宮中の女官達によって作られ、女性の間で用いられていました。 これが後の「ひらがな」です。

そもそもある集団に文字が発生する条件としては、次のようなものがあると言われています。
・小共同体がいくつか分立していること。
・それらをまとめてカバーする、より大きな共同体が存在していること。
日本の弥生時代(紀元前300年〜紀元後300年頃)は、この条件をある程度満足していますから、原始的な絵文字程度のものが存在していても決して不思議ではありません。


(4) 渡来人・帰化人・今来の人 について (日本の原始期・古代期を全般的に眺めてみて)
・カタカナとひらがな  その3 一部抜粋


こうして古代日本語が形成されると同時に、縄文人の卓越した絵画能力と、渡来人の進んだ文化とが相まって、日本固有の絵文字が発明されます。 中国の漢字は志賀島の「漢委奴國王」の金印(紀元後57年)でわかるように、弥生時代中期にはすでに日本に伝わっていましたが、それを使いこなすまでには至っていなかったのです。


縄文時代晩期から弥生時代初期に渡来してきた人達の一部は、瀬戸内海を経由して、現在の畿内一帯に広がり、どことなく故郷の朝鮮半島内陸部を思わせるその土地に定住します。 彼等は早い時期に日本列島に渡来したため、縄文人との融合度が高く、比較的穏和な農耕民族となっていました。 そして馬鈴を発達させて銅鐸とし、農作業用の道具として利用したり、表面に絵文字を刻印して祭具として祭ったりしました。 こうして彼等は、畿内を中心として「銅鐸文化圏」を形成します。

弥生時代中期から後期に遅れて朝鮮半島から渡来してきた人達は、九州北部から瀬戸内海西部に広がり、畿内とは別のグループを形成します。 彼等は戦国時代になっていた中国大陸や朝鮮半島の影響を強く受けた、比較的好戦的な民族で、銅剣と銅鉾に象徴される「銅剣・銅鉾文化圏」を形成します。 やがて北九州一帯を統一したある部族が、畿内にいた部族まで支配下に組み入れようと東進を開始します。 この争いは大陸のより進んだ戦争道具、すなわち鉄器を中心にして武装していた九州の部族の勝利に終わり、彼らは畿内に進出して、以前からそこにいた多くの部族を支配下に入れます。 こうして日本初の統一王朝・大和朝廷が成立し、時代は古墳時代へと移ります。

古墳時代にも朝鮮半島から渡来人が沢山やって来ますが、日本が独立国としての体裁を整える奈良時代までは、渡来人は「今来(いまき)の人」と呼ばれていて、「帰化人」とは呼ばれていません。 これは、この時代の日本人の出自を考えれば当然のことです。 大和朝廷は出身地である朝鮮半島と密接な関係にあり、中国文化を取り入れるのにも積極的でした。 まず漢字を取り入れて漢文を国の公式な文字体系にし、ついで仏教を取り入れて、仏教を中心として国を治めていこうとします。 そして大化の改新の後、律令制度を取り入れて法治国家としての体裁を整え、各部族に伝わっていた神話と歴史を都合の良いように再編集して、天皇支配の正当性を強調します。


遣唐使は、630年から838年の19回、内4回は停止など。894年、菅原道真の進言により停止決定。

独立国としての体裁が整いますと、中国の物真似一辺倒から脱し、日本独自のものを確立しようとする動きがでてきます。 そのひとつが、文字体系を日本語に合ったものにしようとする動きです。 色々と試行錯誤した後、当時の国際社会の共通語である中国語からかけ離れないように、原則として漢文を中心とし、それを日本語で訓読するために補助的な表音文字を作ることになります。 その表音文字は基本的に漢字の一部を取って作るものの、適当な漢字がないものについては、各部族の間に伝わっていた日本古来の固有文字を流用することにしました。

(中略)

……もちろん以上のシナリオは全くの夢想にすぎませんが、ちょっとした疑問をとっかかりにして、こんな空想の翼を広げてみるのも楽しいものです。 日本の古代史には多くの謎がありますから、空想の翼を広げる余地は沢山あります。 特に宮内庁管轄の天皇陵古墳が発掘調査されないかぎり、当分、空想のネタに困ることはないでしょう。


追記)
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon.htmlのサイト主さんの、
想像の翼の広がりと最後の「オチ」。なかなかの絶品です。
posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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