院政をしいた 白河、鳥羽、後白河、後鳥羽 の4上皇

記事タイトル関連歌ベスト3
77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ     崇徳院
99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は     後鳥羽院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院


百人一首歌人 生没年分布図


院政は先代天皇が、
後代天皇の代に「後代天皇の父や祖父など」であるという立場を活かし
大きな影響力を持った上皇として まつりごとに強く関わる体制。
上皇院政は、
平安時代後期(=目安:1060〜1200年)の政治に大きな影響を及ぼし、鎌倉時代でも行われた。

72代天皇(白河天皇)が、息子73代堀河天皇の代に 上皇(白河上皇)として、専制的な政治をした。
この事例が、院政の第一事例。
平安時代後期の始まりごろ、1086年に始まる。
・72代 白河天皇 (生没年=1053〜1129、差76。 在位=1073〜1086、数えで 21才〜34才 の 13年間)
・73代 堀河天皇 (生没年=1079〜1107、差28。 在位=1086〜1107、数えで  8才〜29才 の 21年間)
・74代 鳥羽天皇 (生没年=1103〜1156、差53。 在位=1107〜1123、数えで  5才〜21才 の 16年間)
・75代 崇徳天皇 (生没年=1119〜1164、差45。 在位=1123〜1141、数えで  5才〜23才 の 18年間)
堀河天皇は、
1086年(応徳3年)11月26日、立太子と同日に8才で父白河天皇から譲位され即位。
この短期間での立太子・即位は、
輔仁親王(白河天皇の異母弟) に皇統が移ることを避ける ための
白河天皇の強い意向 によるものであったとされる。 Ref→下の天皇系統図(71〜88代)
ただ 堀河天皇は、帝位にあるまま 父白河上皇よりも早く 29才で亡くなる。
一方
白河上皇は、堀河天皇崩御後22年間存命。
結果
皇位は、
白河天皇の 子(堀河)・孫(鳥羽)・ひ孫(崇徳、近衛、後鳥羽) と継がれていく。
このうち 孫の鳥羽天皇が 祖父にならうように再び院政をしく。
その院政が、「ひ孫の75代崇徳天皇(=77番歌歌人)」退位後、同じく「ひ孫の77代後白河天皇」と
あとめ争いを起こさせたとも言える。( 保元の乱 [1156年]歴代天皇簡易一覧

院政は、政治の実権が「朝廷・公家」サイドから「武家」サイドに大きくシフトされ終わるまで、
白河・鳥羽・後白河・後鳥羽、の4上皇によって行なわれる。
下の画像は、平安時代後期〜鎌倉時代前期 天皇系統図  (71代 後三条天皇〜88代 後嵯峨天皇)

71後三条→72白河→73堀河→74鳥羽→75崇徳
             皇嘉門 77後白河→78二条→79六条
                 76近衛  以仁王→北陸宮
                      80高倉→81安徳
                      慇富門 守貞親王→86後堀河→87四条
                          82後鳥羽→83土御門→88後嵯峨
                               84順徳 →85仲恭


白河天皇は、 72代天皇。 自身の天皇在位期間は、1072〜1086、16年間。
鳥羽天皇は、 74代天皇。 自身の天皇在位期間は、1107〜1123、16年間。
後白河天皇は、77代天皇。 自身の天皇在位期間は、1155〜1158、 3年間。
後鳥羽天皇は、82代天皇。 自身の天皇在位期間は、1183〜1198、15年間。


この4天皇の内、後鳥羽天皇が 百人一首99番歌の歌人 後鳥羽院 として登場。
次の100番歌歌人 順徳院は(=在位時 84代 順徳天皇)
この99番 後鳥羽さんの息子であり、後鳥羽さんに院政をしかれた側の人。 

また、この期間に入る百人一首歌人中の天皇として、
自分が健在であるにもかかわらず 自分の息子を天皇に出来なかった「無念の天皇」
75代崇徳天皇(親が、74代鳥羽天皇。 兄弟が、76代近衛天皇・77代後白河天皇)、
77番歌歌人、崇徳院がいます。

崇徳院は、
父 鳥羽上皇の 「崇徳さんにとっては実に気ままな采配(←院政の一特徴)」 故の
「置きみやげ」 とも言える 跡目争い ( 保元の乱 [1156年] ) で、
「兄弟の後白河天皇」側にやぶれ、讃岐に流される。
下の図は、崇徳さんの 超かんたん生涯年棒図。

なぜ75代崇徳天皇は、壮健な23才で 76代近衛天皇に代わられたのか?
  鳥羽法皇は待賢門院との子である崇徳天皇を退位させ、
  美福門院との子である躰仁親王(崇徳上皇の弟)を即位させた(近衛天皇)。
  崇徳天皇が鳥羽法皇の祖父白河法皇の子だとする風説が流布されており、
  鳥羽法皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていた。  (『古事談』の記述)
この説の信憑性は低いようですが、話としてはとても面白い。

また、77番歌(崇徳院)の前番号(76番)の歌人は、法性寺入道前関白太政大臣。
この法性寺入道前関白太政大臣さん、
俗名は藤原忠通(ただみち)で、元は お公家さん(藤原北家の人)です。
 76 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波  法性寺入道前関白太政大臣

この、百人一首で12文字と 「最も長い歌人名」 である藤原忠通は、次のようなひと。
●平安時代中期に栄華を極めたお公家さん=藤原道長 の5代下 & 頼通の4代下(孫の孫)。
 藤原道長の生没年&生没年差は、966〜1027年 & 61年。 (くるる いれツナ 向いた)
 道長は、平安中期(目安、930〜1060)の代表的人物。 平安時代は、794〜1192 の 約400年。
 道長の有名な歌 ⇒ この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
・百人一首 百歌人中の 藤原族34歌人  南家・京家を含む

・百歌人中の 藤原族34人中  藤原北家流れ31歌人 詳細


保元の乱 [1156年]で後白河天皇側についた人。 (崇徳院陣営にとって敵対陣営の人)
●75番歌で藤原基俊が「あなたってつれない人ですねぇ〜」と
 「あなたは言葉だけは愛想いいけど、一向に約束を実行して呉れないじゃないの」
 と嘆いた、まさにその相手です。
 75 契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり   藤原基俊(道長のひ孫 & 頼宗の孫)
●95番歌歌人 前大僧正慈円 の父親
 95 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみぞめの袖    前大僧正慈円
●91番歌歌人 後京極摂政前太政大臣、俗名=九条良経(くじょうよしつね)、の祖父
 九条良経の父が、九条兼実(かねざね)。九条兼実の父が、藤原忠通( ⇒ 出家後、76番法性寺さん)。
 91 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに 衣かたしき独りかも寝む     後京極摂政前太政大臣

こういう歴史背景を意識して、77番歌を味わうと、
77番歌の一般的解釈とはまたひと味違った味わいが出来ます。
崇徳さんに関しては、
下右側の浮世絵 「 讃岐に流された崇徳上皇 」 (作、歌川国芳)も面白いですし、
落語 『 崇徳院 』 も有名な古典名作落語です。

77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ     崇徳院




1番歌歌人 天智天皇は、2番歌歌人 持統天皇の父ではあるが、院政とは関わりなし。
 なにより、天智天皇は在位期に崩御した天皇である。 (飛鳥時代)
99番歌歌人 後鳥羽天皇は、100番歌歌人 順徳天皇の父であり、
 順徳天皇の代に院政を布いていた。         (鎌倉時代前期)

天智天皇   626〜 672、生没年差 46。 38代天皇、在位 661〜 672、35才から11年間。
持統天皇   645〜 703、生没年差 58。 41代天皇、在位 690〜 697、45才から 7年間。
後鳥羽天皇 1180〜1239、生没年差 59。 82代天皇、在位 1183〜1198、 3才から15年間。
順徳天皇  1197〜1242、生没年差 45。 84代天皇、在位 1210〜1221、13才から11年間。

補足)
飛鳥時代が、 570頃〜 710年。 約140年間。
奈良時代が、 710年〜 794年。 約 80年間。
平安時代が、 794年〜1192年。 約400年間。
鎌倉時代が、1192年〜1333年。 約140年間。

平安前期が、おおよそ、 9&10世紀 &  800年〜 930年。
平安中期が、おおよそ、10&11世紀 &  930年〜1060年。
平安後期が、おおよそ、11&12世紀 & 1060年〜1190年。


百人一首の1番歌 天智天皇 にからむ出来事は、 645年の 「乙巳の変」。
百人一首の100番歌 順徳院 にからむ出来事は、1221年の 「承久の乱」。


院政の時代には、全国に荘園が数多く作られる。
国司が管轄する土地・公領と合わせて、荘園公領制と呼ばれる体制が成立。

平安時代後期には、源氏・平氏といった武士が台頭。
平安時代末期の白河上皇の時期に、平清盛が政治的な隆盛をきわめる。
結果、平氏一門は「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほどの繁栄を誇るほどになる。

しかし、『盛者必衰のことわり』のとおり、
1180年から1185年の 治承・寿永の乱(源平合戦) で、平氏勢は源頼朝らの源氏勢に破れる。
これにより、藤原氏族の摂関政治や上皇による院政などでつないできた
「天皇をトップにし朝廷&貴族がまつりごとをしていた」約400年間に渡る一つの長い時期
古代の最終期=平安時代(794年〜1192年) が終わった。
そして、武家が実権を持ち、まつりごとにたずさわる時代にうつる。
より大きな時代の区切りとして、古代から中世へとうつった。
中世の始まり=鎌倉時代(1192年〜1333年) である。

摂関政治
摂政
天皇が幼少、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができないとき、
天皇に代わってそれを行う(政を摂る)役職。
関白
成人後の天皇を助けて政務をつかさどった重職。
関白は、「天子の政務に関(あずか)り白(もう)す」の義で、平安中期、藤原基経をこの任にあてたのに始まる。
次第にその職名となり、天皇が幼少の時は摂政、成人後は関白を任ずる慣例となった。
藤原氏がその地位を独占し、例外は豊臣秀吉・秀次の二人のみ。


院政に関わる百人一首の歌人としては、鎌倉時代の天皇親子がいる。
82代天皇の後鳥羽院(父)と、84代天皇の順徳院(息子)。
このお二人、源将軍が三人で終わったあと、鎌倉幕府の実権を握る「北条族」と対抗する。
この争いが、承久の乱(1221年)。

結果、朝廷側は幕府側に敗れ、二人はそれぞれの地に流される。
父 後鳥羽院は、壱岐島(島根県)。
子 順徳院は、佐渡島(新潟県)。


99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は     後鳥羽院
100 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり     順徳院


posted by 百人一首散策人 at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小倉百人一首の 時代・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/146778726
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。