77 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ 崇徳院
78 淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜寝ざめぬ須磨の関守 源兼昌
79 秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔
80 長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ 待賢門院堀河
■76 法性寺入道前関白太政大臣(ホッショウジニュウドウサキノカンパクダイジョウダイジン、1057〜1164)
藤原忠通(フジワラノタダミチ)。摂政関白 藤原忠実(タダザネ)の子。
百人一首で、最も超長い名前。いつもこの歌に関して書く時、またかぁ〜と難儀させられる。
わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波
広々とした海に舟をこぎ出して眺めてみると
雲と見間違うばかりに 沖の白波が立っています。
わた…海のこと。わたの原 ⇒ 大海原。
ひさかたの…天、空、日、月、光、に掛かる枕詞。はるかさをイメージさせる?
「わたの原」は、11番を意識したもの。「ひさかたの」は、33番でも使われている。
■77 崇徳院(すとくいん、1119〜1164、45才。75代天皇 在位 1123〜1141)
保元の乱(1156年)に敗れ、讃岐(香川県)に配流されたまま崩御。
鳥羽天皇の第一皇子。歴代天皇一覧
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ
川の瀬の流れがはやくて 岩にせき止められた急流が
二つに分かれ そしてまた 一つにになるように
恋しいあの人と 今は別れていても いつか必ず再び逢って 結ばれようと思っているからね
岩にせかるる…岩にせきとめられる
崇徳さんは、12世紀の方ですので、次の2行の語呂は、1100年を省略してます。
生年・流年・没年 ⇒ 讃岐へと、「行く(19) 頃(56) 無視(64) 」され、崇徳泣く
在位年間 ⇒ 崇徳の兄さん(23)、よい(41)おじさん。 (生没年差45)
保元の乱(ほうげんのらん):
平安時代末期の保元元年(1156年)、
崇徳上皇と後白河天皇が対立して、崇徳上皇側に後白河天皇側が奇襲を仕掛けた出来事。
この歌は、崇徳さんが保元の乱に敗れて
讃岐に流された事の恨みとも、都への郷愁ともとれます。
私は勝手に、そうだと思ってます。
でも、どの解説にも恋心を歌った歌だと書いてますので、
恋心を歌ってるのでしょう。
ただ私…、左の絵を見てから、
この歌は崇徳さんの恨み辛みの歌に違いない、
と勝手に思い込んでます。
百人一首。色んな解釈で楽しむのも おもしろいと思います。
・落語の題目『崇徳院』の要約は ⇒ コチラ 。
■78 源兼昌(みなもとのかねまさ、12世紀初め頃)
源俊輔(ミナモトノトシスケ)の子。
淡路島かよふ千鳥のなく声に 幾夜寝ざめぬ須磨の関守
淡路島から渡ってくる千鳥の悲しげな鳴き声に
幾夜 目を覚ましたことだろうか 須磨の関の番人は。
季節を代表する鳥 … うぐいす(春)、ほととぎす(夏)、雁(秋)、千鳥(冬)
須磨…現在の神戸市須磨区。
須磨海岸は毎年夏、海水浴客が沢山来る。
『源氏物語』では光源氏が、
時の天皇の奥さんとの火遊びがばれて流された場所。 (全54帖の 第12帖 須磨)
■79 左京大夫顕輔(さきょうのだいふあきすけ、1090〜1155)
藤原顕輔。藤原顕季(アキスエ)の子。
和歌の家柄。六条家を盛んにした歌人。勅撰集『詞花集』がある。
秋風にたなびく雲の絶えまより もれ出づる月の影のさやけさ
秋風にたなびく雲の切れ間から もれいでて来る 秋の月の光
嗚呼 なんとクッキリと澄み切っている光だろうか〜
月の影…月の光のこと。
情景歌…恋しい・淋しい・悲しい・哀しい、ではなく、
純粋に秋の夜の澄んだ風景を歌っている。
■80 待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ、12世紀前半)
待賢門院に仕えた女性。院政期花壇の代表的女流歌人。
長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ
この髪のように いつまでも長く愛しているからね と言った貴方のお気持ちが
その言葉どおりに続くのかどうか 私には分かりません。
こうしてお逢いして別れた今朝、黒髪が乱れているように
私の気持ちも千々に乱れて 物思いに沈むばかりですわよ〜 あぁ〜
今朝は…この歌が後朝(あとざね)の歌であることを示す。
後朝…男女が共寝をした翌朝。
黒髪…平安時代、長く豊かな髪は美人の条件。
そのため男性は黒髪を美しいと褒めることが多くなる。
そこで、女性が恋人などとの思い出に重ねて、
恋を回想する場面に黒髪もしばしば登場する。
(百人一首では「黒髪」が歌われてるのはこの歌だけ)
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