定家は和歌の才長けた好色男?
⇒ 色に(千162年) 強い(千241年)。 泣く泣く(生没年差79) 亡くなる。
◆鎌倉初期の公家・歌人。
諱(イミナ?)は「ていか」と有職読みされることが多い。
道長の来孫(5代下。らいそん。ひ孫の孫。やしゃごの子。きしゃご)、御子左家の出身。
父は藤原俊成で、母は美福門院加賀(藤原親忠女、?〜1193年)。
官位は正二位権中納言(1232年(寛喜4年))に昇った。
九条家に近く、土御門通親らと政治的には激しく対立した。
官位から京極中納言と呼ばれた。
法名は明静(みょうじょう)。
◆経歴
平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、歌道の家としての地位を不動にした。
子に藤原為家、
孫に二条為氏・京極為教・冷泉為相らがいる。
その直系子孫は絶えたが、分家の一つであった冷泉家は現在も続いている。
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代表的な新古今調の歌人であり、その歌は後世に名高い。
俊成の「幽玄」をさらに深化させて「有心(うしん)」をとなえ、
後世の歌に極めて大きな影響を残した。
二つの勅撰集、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進。
ほかにも秀歌撰に『定家八代抄』がある。
歌論書に『毎月抄』『近代秀歌』『詠歌大概』があり、
本歌取りなどの技法や心と詞との関わりを論じている。
歌集に『拾遺愚草』がある。
18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』を残した。
『明月記』は、2000年(平成12年)、国宝に指定された。
『明月記』には、おうし座で超新星爆発が起こったこと(現在のかに星雲)に関する記述があり、
天文学上、重要な資料となっている。
日記は他に、1201年後鳥羽天皇の熊野行幸随行時に記した『熊野御幸記』(国宝)。
また、宇都宮頼綱に依頼され撰じた「小倉百人一首」が有名である。
『源氏物語』『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わった。
この際に用いた仮名遣いが定家仮名遣のもととなった。
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